関東の城探訪  群馬県  膳城  登城日2014.09.20
イメージ 1
 
 
 城郭構造     丘城
 天守構造     不明
 築城主      膳氏
 築城年      15世紀中頃
 主な城主     膳氏、河田備前守
 廃城年      不明
 遺構       土塁、空堀、土橋
 指定文化財    群馬県史跡
 所在地      群馬県前橋市粕川町膳

 
 
 次に訪れたのは女淵(おなぶち)城からさらに東へ2kmほど行った“膳城”です。
見出しの通り、武田勝頼による“素肌攻め”で知られる城ですね。
 “素肌攻め”と言えば何やら艶っぽいイメージを抱く向きも有りそうで、武田氏だから四郎殿も“秋山信友”に倣って寝技で攻めた感じにも取れますが、その真相は後ほど…w

 

イメージ 2
城址公園には遊具もあり、そっちは家族連れがちらほら 
 
 膳城は土地の豪族善氏(のちに膳氏に改称)が15世紀中頃に建てたもので、戦国初期には金山の横瀬氏の配下として生きていました。
 上杉謙信の関東侵攻後は謙信に従い、対北条戦を戦いますが、元亀3年(1572年)、逆襲して来た北条勢により落城し、膳氏は没落してしまいます。
 
 北条氏はこの城に河田備前守を入れます。 
天正8年(1580年)、上杉氏の内乱“御舘の乱”が起こると、景勝を支持した武田勝頼が侵攻して来て、この地域の景虎方の諸城を攻略して廻ります。
 
イメージ 3
膳城の縄張り(現存部分のみ) 
  
 膳城は直接の攻略はされなかったものの、勝頼は平定後の領地を“視察”と称して巡検して廻ります。

  民心安定のためわざと武装せず、平服で巡視する勝頼一行が膳城の近くにさしかかった時、この姿を侮辱と取った河田備前守の配下がこれを襲ってしまいます。

 
  勝頼方は“待ってました”とばかりに出撃兵を討ち取ると、そのまま一気に城内になだれ込み、河田備前守はじめ主だった部将をすべて討ち取り、膳城はあっけなく落城してしまいました。
  この合戦が『勝頼の素肌攻め』と言われています。
全然艶っぽくなくてすみませんw
 
イメージ 4
歴史民俗資料館
すでに閉鎖されてしまってました
  
 つまり、甲冑を着ない防御の弱い状態を素肌と言ってる訳で、裸な訳ではありません。
言い換えれば、完全武装の城兵が戦ってもし勝っても武士としては甚だ不名誉な状態…。こうした挑発的行為に城兵は激昂したのですね。
 
 勝頼側にしてみれば、怪我をしやすいリスクはもちろん有りますが、身動きが軽い分、実際の斬り合いではかなり有利だったと思います。 兵士個々の腕前と度胸があれば…という前提ですが、そうした事を知り尽くした上で、選りすぐりの精鋭を引連れての計画的な作戦行動だったのでしょうね。
この時期の武田氏は、やっぱり恐ろしいプロ集団です。
 
 
 この落城をもって膳城は廃城になり、その多くが山野に還っていましたが、近年に膳氏の末裔の方が膳城の主郭部分の土地を買い取り、そのまま県に寄付された事で、膳城の遺構はよく保存され、往時の姿を垣間見る事が出来ます。
 
イメージ 5
だいぶ埋まってはいるものの複雑な折れを持つ空堀
かなり技巧的
 
  
 
 
膳城を歩く
  女淵城から県道3号線に戻り東進、この辺はだいぶ谷と丘のアップダウンがある地形です。
 
  上毛電鉄の膳駅を過ぎると道路上に『←膳城址300m』の看板が出ます。
併せて『歴史民俗資料館』と『出土埋蔵物管理センター』の看板も並び、
資料館併設の城址は本日初なので、期待できそうです。
 看板に添って左折すると、すぐにそれらしい風景が現れ、立派な施設と駐車場がありました。 
 
 クルマを停め、まずは情報収集をと資料館に向かいますが、なにやら嫌な予感の寂れ方です。
 玄関に着くと、やっぱり閉鎖されています…。
お城風の立派な資料館を備え、県も力を入れてた様ですが、こうゆう施設を維持するには百名城クラスの知名度が必要なんかなぁ…。

 

イメージ 6
本丸跡 
 
  隣接の埋蔵物管理センターも閉まってるので、仕方なく縄張り図を頼りに城址に入って行きます。
 施設の建つ北郭からのアプローチで、堀を挟んで本丸になり、西郭の一部とそれに繋がる袋郭が遺跡保存対象としてよく残っています。
 
 規模はさほど大きくはないけれど、構造は横矢の掛かった技巧的なもので、北条の武将が入っていた証明にもなりますね。
 ここも大胡城同様に下草の処理がイマイチです。
遺構保全を考えれば草刈りのやり過ぎは雨の浸食を招いて良くないのですが、ここは全面的に植林してあるので、もう少し下草を処理して見やすくして欲しいものですね。
 
イメージ 7