秋晴れに恵まれた先週末、群馬の平城群を巡って来ました。
 
戦国時代の群馬県(上野国)といえば、関東管領:山内上杉氏の拠点でしたが、上杉氏が戦国大名としての地位を守り切れなかった事から、後北条氏に圧迫されます。
 
 上杉憲政が頼った長尾政虎(上杉謙信)が三国峠を越えて来る様になると、上杉勢として勢いを盛り返しますが、謙信も通年を関東で過ごす事は出来ず、冬になるとまた北条の攻撃を受けてしまいます。
 
 そうこうしてるうちに、西からは武田信玄の侵攻が始まり、上野は隣接する大大名の利害がぶつかる“草刈り場”になり、上野の地侍達は三大勢力に翻弄される厳しい苦難の時代を迎えます。

 
 
関東の城探訪  群馬県  前橋城 登城日2014.09.20
 
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 城郭構造     輪郭式平城
 天守構造      3重3階(非現存)
 築城主       長野方業、松平直克
 築城年       15世紀末、文久3年(1863年)
 主な改修者     酒井重忠
 主な城主      上野長野氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、越前松平氏
 廃城年      1871年
 遺構      石垣、土塁、堀
 指定文化財     なし
 
 
 最初の訪城は“関東七名城”のひとつ、群馬県庁のある前橋市の“前橋城”です。
前橋城は旧名を“厩橋城”と言い、ここの地名ともども古くは“うまやばし”だった様ですが、口語で伝わるうちに、→“まやばし”→“まえばし”と変化して行き、江戸時代には正式に“前橋”となりました。
それが今では群馬を代表する街ですから、語呂の力って大きいですね。
 
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県庁の周囲に残る本丸土塁
遺跡保護のため登る事はできません
 
  
 前橋城は“業正”でお馴染みの長野氏の一族が、箕輪城の支城として利根川左岸の崖端に築いた“石倉城”がその始まりとされています。
 石倉城は天文3年(1534年)の利根川の氾濫により崩壊してしまいますが、城主:長野賢忠は残った三の丸を中心に再築城して、“厩橋城”と名付けました。
 
 長野氏は山内上杉氏の配下ですが、天文20年(1551年)に後北条氏の侵攻を受け、長野賢忠は厩橋城を放棄して、上杉憲政と共に越後に逃れます。
 一旦は後北条氏の持ち城となった厩橋城ですが、永禄3年(1560年)に上杉謙信の関東侵攻が始まるとたちまち奪還され、謙信はここを関東への足掛かりの城として定めます。
 しかし、永禄6年(1563年)には後北条氏は武田の援軍を得て、再び奪還します。
 城はその後また謙信の手に落ち、今度は謙信は越後から重臣の北条(きたじょう)高広を移して城代に据え、厩橋城を死守する構えを見せます。
 ところが北条(きたじょう)高広は何を血迷ったか永禄10年(1567年)には後北条氏に寝返ってしまい、厩橋城とその周辺はまた後北条氏の勢力圏になります。
 
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前橋城の外郭を洗う利根川の流れ 城の一番の敵は人間ではなかった…
  
 
 この北条(きたじょう)高広という武将、なかなか面白い人物なので若干触れて見ます。
*名前がややこしいので、氏康の北条氏は今回は“後北条氏”と記します
 
 北条氏は鎌倉時代の大江広元を祖としており、中国の毛利氏とは同じ氏族です。
毛利氏が代々大江広元の“元”を受け継いだのに対し、北条氏は“広”の字を受け継いでいます。
家紋は毛利家と同じ一文字三ツ星ですね。
 
 越後の北条氏は代々長尾氏に仕え、刈羽郡の地を領していました。
高広は武将としての才に優れていましたが、天文23年(1554年)に武田信玄の甘言に靡いて、謙信に謀反を起こしてしまいます。
 この時はすぐに降伏して謝り、以後は謙信の元で軍功を重ねて信頼を取戻した事による厩橋城主への抜擢だったのですが、上杉の最前線で活躍する事よりも越後を離れる事が嫌だったのか…節操のない事です。
 
 その後、後北条氏が武田氏への対抗上に“相越同盟”を結ぶと高広の領地は上杉領となったので、北条氏政に仲介してもらって謙信に詫びを入れ、上杉家臣に戻ります。
 カッコ悪い事ですが、武人としては優れており、謙信もそこを愛してるが故の寛容さだと思います。 高広の“粗忽さ”には死ぬまで頭を痛めていた様ですね。
 
 謙信の死後の天正6年(1578年)に“御舘の乱”が起こると高広は“珍しく”恩義のある景虎(後北条からの養子)を支援します。 
が、御存知の様に乱は武田勝頼に支援された景勝側が勝ってしまいます。 そしたら事もあろうか自ら後北条の陣営を離れて敵方の武田勝頼に誼を通じてしまいます。
何というか… 期待を裏切らない、面目躍如ですね…。
 
 頼みの武田氏も織田信長に攻め滅ぼされ、上野に滝川一益が配されるとここは大人しく一益に従いますが、信長の死の直後の“神流川の戦”には消極関与に徹して、戦後はまったく臆面も無く、後北条氏に服属しています。
 “高広病”はさらに続き、後北条氏による真田昌幸の“沼田攻め”には氏直の命を拒んで参陣せず、またまた上杉に寝返ります。
 昌幸も真っ青の“表裏卑怯の者”ですねw。
これにはさすがに怒った後北条氏は、氏直に加え氏政までも出陣して厩橋城をガンガン攻め立て、高広は堪らず降伏して開城し、越後に逃れます。
 
 久々に越後に戻った高広ですが、温厚で寛容な越後の風土でもさすがに居場所が無く、その後の越後北条氏は没落して行きます。
 
 戦わせたらメチャ強かったけど、どこか足りない感じの北条高広…。 柿崎景家などもそんな匂いを感じるし、謙信の人格の高さを育てた陰の功労者かも知れませんねw
 
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最終の縄張り図 広大です。
  
 
 さて、厩橋城に戻ります。
天正18年(1590年)小田原征伐では浅野長政勢に攻められ開城します。
同年、新たに関東に入った徳川家康は平岩親吉を3万3千石で厩橋城に置きますが、関ヶ原の戦いの後、新たに酒井重忠が入り、近世城郭を整備します。
この時の城が史上最盛の城郭であり、三層の天守もありました。
この時から名前も正式に“前橋城”となりました。
 
 しかし“坂東太郎”の異名を持つ“暴れ川”利根川が城壁を洗う立地の前橋城は、洪水の度にその被害が大きく、寛延2年(1749年)播磨国姫路藩から松平朝矩(越前家)が転封して来た頃には本丸さえも崩壊の危機にある惨状でした。
 
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復帰嘆願のため、領民達が手弁当で必死に積んだであろう築堤
こうゆう領主と領民の良い関係の遺産は他に誇るべきものです。
  
 朝矩はやむなく領内の川越城(この時は空き城だった)を居城にして、前橋城は廃城としました。
 
 領主の居なくなった前橋は活気を亡くし、領民による復帰の請願が再三なされましたが、幕末になってやっと河川改修され、利根川の脅威が無くなった事から、川越藩主:松平直克は幕府に願い出て前橋城の再建を果たします。
 築城工事には多くの領民が勤労奉仕で従事し、慶応3年(1867年)3月に直克が入城して前橋藩が再興されますが、半年後、大政奉還によって徳川の幕藩体制は終焉します。
 
 その後、城址には前橋県庁が置かれ、次いで群馬県庁が高崎から移って来て、群馬県の政治の中心として今日に至っています。
残念ながら前橋城の遺構はその過程で消滅を余儀なくされ、県庁を囲む本丸土塁にその名残りを留めるのみになっています。
 
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往時の天守閣の復元図
 
 
 
 
 
 
前橋城を歩く
 関越道を前橋ICで降り、R17を東進します。
前橋城の跡地にある“群馬県庁”はこの時点でハッキリ視認でき、それを目印に行けば良いので、これくらい行きやすい城も珍しいです。
 
 標識に従ってR17を左折し、県庁の東の通りに入って行きます。
左に県庁、右に前橋市役所を見ながら進んで行くと、本丸土塁が見えて来ます。
 
 前橋城は“失われた城”的な紹介が多いので、殆ど期待せぬまま来たのですが、なんのなんの、関東七名城に相応しい見事な土塁ですよw
 さらに凄いのは土塁の周辺に百人ではきかない若者の群れがたむろしてて、“お城ブーム”もここまで来たかw…という盛況ぶりです。
 
 そこで困ったのが駐車場で、すべての駐車場にガードマンが立ち、『周辺駐車場すべて満車』という愛のない看板を掲げています…。
 どこに停めればいいのかと、一人のガードマンに尋ねてみると、『今日はグリーンドームでJリーグの試合があるので、もうこの時間は空いてませんよ!』… なんだ、そういう事か。
 
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来年の大河の、舞台になるんかな?
  
 ダメ元で『城址を見に来たんだけど…』と伝えると、『前橋城観光なら、市役所が指定駐車場です』と教えてくれたので、一縷の望みを賭けて行ってみます。
 
 着いてみると意外にガラガラ。 
入口で駐車券を受け取って、なるべく県庁に近い区画に停めます。 
あれ? 駐車券って事は…有料なんだ! だから空いてるんですねw
 
 ともかく歩く事5分、先ほどの土塁に向かいます。
県庁を囲む様に北側に“コの字型”に土塁が残ります。 高さは5mくらいか…戦国のしかも平城を見慣れた眼には、ずいぶん立派な土塁です。さすがは本丸土塁ですね。
塁上に植えられた老松が更にその風情を醸しています。
 
 旧本丸内には県庁が建ち、東側の三ノ郭には市役所があり、他にも裁判所やら、法務局やらの公舎が立ち並ぶ主郭部。
 ある意味これは正常進化なんですね。
戦国期、江戸期を通じ前橋の政治の中心だった前橋城址は、明治以降もその機能を絶やさず受け継ぎ、更に上州の中心にまで進化しています。
 
 そうした中で本丸土塁だけでも保存する事にした…。建築工事やその後の運用にも何かと制約になり、不便だとは思うけど、江戸末期の前橋城再建に賭けた領民達の情熱が今も受け継がれ、そうした判断に結びついてるのは間違いないんでしょうね。
そう思うと、聳え立つ“現代の天守”が妙に格調高く見えてきました。

 

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現在の天守は立派ですw