関東の城探訪  栃木県 唐沢山城  登城日 2014年 9月 7日
 
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別名                 栃本城、根古屋城、牛ヶ城
城郭構造           連郭式山城
天守構造           なし
築城主      佐野成俊
築城年      建保元年(1213年)
主な改修者        後北条氏
主な城主           佐野氏、(後北条氏)
廃城年              1590年(天正18年)
遺構                 石垣、土塁、堀、井戸
指定文化財        国の史跡(申請)
所在地      栃木県佐野市富士町

 
 次は関東七名城のひとつ、栃木の唐沢山城です。
土地の豪族『佐野氏』の居城ですが、鎌倉・室町・戦国期と激動の関東を生き抜き、最後は徳川の大名として残った希少な氏族です。
 
 それだけに、唐沢山城には歴史があり、完成された城の姿が見られると思います。
 また、関東に在っては珍しく石垣を多用した城で、同様な城で渡良瀬川を挟んだ“太田金山城”との関連が判るかも知れませんね。
 
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大手虎口内にある縄張り看板
城のパンフなどは無いので、これが頼りです
  
 
 唐沢山城の起源は佐野氏の祖で平安時代の“藤原秀郷”まで遡るという伝承もあります。
 藤原秀郷という武将、知名度はイマイチなんですが、別名“俵藤太”とも言って、天慶3年(940年)に平将門の乱を平定した武将なんです。
大河ドラマ『風と雲と虹と』では露口茂さんが演じてましたよね。
 
 以後、秀郷とその子孫は関東に根付き、佐野氏、小山氏、比企氏、江戸氏、結城氏、大石氏などに分かれ、“坂東武者”の主流を成して行きます。
 全国で見ても、奥州藤原氏、蒲生氏、大友氏、少弐氏、竜造寺氏、立花氏など、みな秀郷の子孫ですから、錚々たる顔ぶれです。
八幡太郎源義家と比べても遜色ないもの凄い人ですよね。
 
 余談が長くなりましたが、平安時代の戦闘形式の違いと、そうしたメジャーな存在の秀郷が険しい山上に城を築く必要も無いので、築城年は鎌倉期としました。
 
 
 さて、源頼朝を支え、足利尊氏に従って時代を生き抜いた佐野氏ですが、戦国期になると他の氏族同様に戦乱に巻き込まれて行きます。
 当初は同族と共に古河公方について管領:上杉氏勢力と、また北条氏と戦ったものの、北条氏の圧迫が強まり、古河公方が衰退すると北条氏への従属を余儀なくされます。

 しかし管領:上杉家として越後の上杉謙信が関東に侵攻して来ると、北条氏の対上杉最前線として唐沢山城は度々攻撃を受けます。
 当主の佐野昌綱は堪らず“上杉に鞍替え”する事で難局を乗り切りますが、今度は上杉氏の対北条氏最前線という事で、北条氏の攻撃に晒される事になり、苦悩は続きます。

 こうなると双方との縁戚関係や調略もあり、佐野氏家中にも“親上杉派”“親北条派”ができ、結果それぞれの派が状況に応じて主導権を取る事で、逆に時の権力者を翻弄し、上手く生き延びます。
 
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駐車場前のレストハウス ソースカツ丼がオススメ!
 
 
 上杉謙信が没して上杉の脅威が弱まると、北条氏康の五男:氏忠を養子にして北条傘下に戻り、豊臣秀吉の“小田原征伐”で当主:佐野氏忠が小田原に籠城すると、一族の佐野房綱が秀吉に誼を通じ、唐沢山城の北条派を一掃する事で断絶を免れます。
 その後の“関ヶ原の戦い”でも徳川家康に味方した事で、佐野藩3万5千石を立藩して、徳川政権でも大名の座と領地を守ります。
 
 しかし徳川体制が落ち着いた慶長19年(1614年)、佐野藩は突然改易されてしまいます。
 理由は、唐沢山城で江戸城の火災を見つけて、直ちに消火に駆け付けた“不行跡”という事で、江戸城を覗ける山上に城を持つ事と幕府に無断で領地を離れた事を“悪行”とされた…、殆ど言い掛かりの世界です。
 
 何とか歓心を買って認められたい積極行動がアダとなる、我々サラリーマンには身につまされる話ですが、徳川幕府には“目障りな大名の一掃”の既定路線のひとつだったんでしょうね。
 
 是をもって佐野藩は天領となり、唐沢山城は廃城になりました。
 
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大手虎口の枡形石垣
  
 
 
 
 
 
『唐沢山城を歩く』
 逆井城を後にし、新4号に出て北上し、小山からR50に乗り換えて、1時間半のドライブで唐沢山城にやって来ました。
 
 最近すっかり秋めいた涼しい日が続いていましたが、この日ばかりは昼前から残暑が戻ってきて、がぜん暑くなりました。
 “関東一の山城”(八王子城もそう言ってるが…)を極める為に麓からの登攀をと意気込んで来ましたが、そんな気持ちは敢え無く崩れ、クルマで向かいます。
 汗かくと蚊に狙われるし、デング熱は怖いもんねw
 
 R50から例幣使街道に入り、岩舟の“猫耳山”を右手に見ながら、比高差200mの唐沢山山頂へ一気に登ります。
 着いた行き止まりが“蔵屋敷跡”の駐車場で、100台近いキャパがあります。ここにはレストハウスもあり、こちらはちゃんと営業してましたw
 
 …というのも、城址の遺構をそのまま使って、藤原秀郷を祀る“唐沢山神社”が創建されていて、前述の様な凄い人ですから、広く信仰を集め、参詣者が絶えません。
 それに、古城の風情とハイキングの要素が加味されて、おまけに眺望も良いので、老若男女を問わず人が集まってくる様です。
 
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天狗岩から江戸方面を見る
江戸の火事が見えたそうですが、この日はガスってあまり見えませんでした
  
 レストハウスから本丸(本殿)を目指し入って行きます。
入口からもう大手虎口の石積みの枡形になり、最初から“石の城”をアピールしていますね。
 
 大手門内の右手にすぐ小高い岩山があり、『天狗岩』と呼ばれ、見張り所になってた様なので、まず登って見ます。
岩質は安山岩ぽくて、柱状に剥離しやすいものなので、石垣の建材に向いています。これは、太田金山城と同じ条件ですね。
 天狗岩の上からは南の江戸方面が一望で、西の田沼、足利方面も良く見えます。
 
 大手に戻ってさらに奥に進むと、石垣で縁取った大きな丸い池(大炊の井)があり、満々と水をたたえています。
これも金山城の“日の池”“月の池”と同じ形式の水源確保ですね。
 
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城内の水源の大炊の井
一度も枯れた事はなく、直径8mで水深は9mもあるげな! 
 
 池を過ぎると大堀切になり、深い堀が南北に走って、最後は竪堀となって落ちて行っています。
 ここで完全に郭が変わる感じで、ここからが主郭部かな?
しかし構造はまだ土塁形式で、中世のの山城然とした雰囲気の帯曲輪(桜の馬場と書いてあったが)の参道を進んで行きます。
 
 しばらく歩くと正面の上に高石垣が姿を現します(冒頭の写真)
主郭の本丸、二ノ丸、引局、南の城は総石垣で固められてる様ですね。
やや小ぶりな荒く割った自然石の野面積みで、それでも10mほどは積まれています。
 ほとんど手が入っていない苔むした感じは、奈良の高取城で半分自然に還った石垣を思い起こさせます。
 
 太田金山城と同じ石垣形式かといえば、あちらは積み直しされてる分、石粒も大きく整然としてますが、同じ地域で同じ時代なのを思うと、こちらの石垣がオリジナルではないか…な。
マチュピチュ風の石畳と水路はありませんがw
 
 
 本丸跡にある神社の本殿で秀郷公にお参りして、帰り道は高所から縄張り構造を見ながら降りて行きます。
 この城、古さと山城という事もあってか、殆ど北条の匂いがしませんね。
北条氏忠が養子に入って僅か2年あまりで北条氏は滅んでるし、家中を掌握し切れてた訳でも無いので、仕方ないかもしれませんね。
 
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本丸跡の石垣と神社本殿 なかなか味のある石積みです
  
 
 最後に、話は栃木県の100名城に跳びます。
現在では『足利氏館』が認定されていますが、遺構の残存具合と保全の為の取組みのどちらを見ても、唐沢山城が上位にあって然るべきだと思います。(鑁阿寺はお寺カテですよ)
この点では関東七名城の中でもトップだし、少なくとも国指定史跡に認定して、しっかり遺して欲しい城址です。