関東の城探訪 茨城県 逆井城 登城日:2014年9月6日

城郭構造 平城
築城主 逆井常宗
築城年 享徳年間
主な城主 逆井氏、北条氏(北条氏繁)
廃城年 天正10年?
遺構 土塁、掘割、土居
指定文化財 茨城県指定史跡
再建造物 櫓、土塀、主殿、櫓門、木橋
場所 茨城県坂東市逆井
築城主 逆井常宗
築城年 享徳年間
主な城主 逆井氏、北条氏(北条氏繁)
廃城年 天正10年?
遺構 土塁、掘割、土居
指定文化財 茨城県指定史跡
再建造物 櫓、土塀、主殿、櫓門、木橋
場所 茨城県坂東市逆井
今回は北条氏の北辺の“前線基地”であった2城を訪ねました。
まず最初は『逆井城』。
まず最初は『逆井城』。
逆井城があるのは茨城県坂東市、利根川に鬼怒川が合流する辺りで、旧名は下総国猿島郡です。
“坂東市”という名前は市町合併の時の新しい名前で、“関東市”みたいな意味合いですから、名前を聴いても場所がイメージできない違和感がありますね。
由緒ある“猿島市”じゃダメだったんかな?
“坂東市”という名前は市町合併の時の新しい名前で、“関東市”みたいな意味合いですから、名前を聴いても場所がイメージできない違和感がありますね。
由緒ある“猿島市”じゃダメだったんかな?

城址公園入り口にある絵看板
この絵の通りに建物が復元されてます
逆井城は“飯沼”という広大な沼(現在は埋め立てられて農地になっています)を背にした“後ろ堅固”な平城でした。
初の築城は此処の北を本拠とする小山氏によるもので、一族の小山常宗がこの地を領し、新たに築城して『逆井(さかさい)氏』を名乗りました。
初の築城は此処の北を本拠とする小山氏によるもので、一族の小山常宗がこの地を領し、新たに築城して『逆井(さかさい)氏』を名乗りました。

城跡の北面
当時は向こうの家並まで一面の沼(飯沼)だった。
江戸時代に干拓して新田開発されましたが、想像を絶する難工事だった様です。
先人が何百年かけて拓いた農地を現、代人がいとも簡単に放棄してしまわないか…心配ですね。
北条氏がこの城を奪取したのは天文5年(1536年)、の事で、大道寺盛昌の攻撃で落城したと言われます。
これで逆井氏は滅亡し逆井城は北条氏の支配となりますが、今度は東の“多賀谷氏”が新たな脅威となったため、『また強敵が出てきたがや!』と、相模から北条綱成を呼んで、逆井城を大幅に改築強化します。天正5年(1577年)の事です。
これで逆井氏は滅亡し逆井城は北条氏の支配となりますが、今度は東の“多賀谷氏”が新たな脅威となったため、『また強敵が出てきたがや!』と、相模から北条綱成を呼んで、逆井城を大幅に改築強化します。天正5年(1577年)の事です。

天守的な役割の三階物見櫓
望楼を持ち、屋根は銅板葺きの豪華版
小田原城なら、こんなのが有ったかも知れませんね。
以後は名前も『飯沼城』と改め、多賀谷氏、佐竹氏、宇都宮氏と対峙する拠点として万余の兵が駐屯できる大きな城だったようです。
諜報戦のため風魔一党300名が常駐してた話も伝わりますが、天正18年(1590年)の小田原征伐をもって廃城となった様です。
諜報戦のため風魔一党300名が常駐してた話も伝わりますが、天正18年(1590年)の小田原征伐をもって廃城となった様です。
近年復元された逆井城ですが、飯沼城の遺構がベースなのは言うまでもありませんが、敢えて『逆井城』としたのは、逆井氏への地元の愛着かな?
北条さん、ここでも人気がありません…。
北条さん、ここでも人気がありません…。

複雑な折れを伴う空堀と土塁が巡る、北条の城らしい縄張りです
『逆井城を歩く』
逆井城が普通の城跡と違うのは、建物がたくさん復元されてる事。
しかもその当時の建物をなるべく忠実に再現しているので、戦国の城の雰囲気が体感できる稀有な城である事です。
逆井城が普通の城跡と違うのは、建物がたくさん復元されてる事。
しかもその当時の建物をなるべく忠実に再現しているので、戦国の城の雰囲気が体感できる稀有な城である事です。
1982年から発掘調査が始まり、建物を含めた復元の機運が高まって、望楼つきの物見櫓、本丸虎口の城門、井楼矢倉、土塀などの建物の復元が実現しています。
その過程では“関宿城”みたいな江戸期のコンクリート模擬天守を…という声もあった様ですが、時代考証の専門家の努力で、『戦国期の姿を忠実に』というコンセプトが守り通され、現在の姿になっています。
その過程では“関宿城”みたいな江戸期のコンクリート模擬天守を…という声もあった様ですが、時代考証の専門家の努力で、『戦国期の姿を忠実に』というコンセプトが守り通され、現在の姿になっています。

水堀、土塁、土塀、井楼矢倉…
戦国の城イメージそのままで期待を裏切りません。
ただ、当時の逆井城の姿そのままという訳ではなく、“戦国の城”“北条の城”の考証をベースに、少し豪華めに造られている様ですね。
近隣の城跡の遺構なども移築・復元されていて、逆井城に拘らなければ見所はたくさん有ります。
城の復元に併せて“戦国まつり”の様な活性イベントも始まっている様で、広~い駐車場も整備されています。
近隣の城跡の遺構なども移築・復元されていて、逆井城に拘らなければ見所はたくさん有ります。
城の復元に併せて“戦国まつり”の様な活性イベントも始まっている様で、広~い駐車場も整備されています。

市内の大安寺から移築した「観音堂」
1588年建立のまさに戦国期の様式のお堂です
良い雰囲気ですね。
しかしながら、晴天の土曜日に訪れたにも関わらず、例によって貸切り状態で、物見櫓も御殿も入れず、井楼櫓にも登れません。
さらには、場内にある手打ち蕎麦の店“智姫”もすでに廃業して久しい様で、城の案内所のシャッターも閉まったままでした。
さらには、場内にある手打ち蕎麦の店“智姫”もすでに廃業して久しい様で、城の案内所のシャッターも閉まったままでした。
町興しとしての逆井城復元は失敗した様子に見えてしまいますが、歴史ブーム城ブームといわれる中で、それを体感できる貴重なこの城に人が来ないのは寂しい限りですね。

南隣りの関宿町にある関宿城
場所も建物も全く別物の施設なんですが、ぼちぼち賑わってる様です。
例えは悪いけど、皆さん小麦色の健康美人より、着飾った整形美人の方がお好きな様です。
電車も高速道路も無くて、訪れ難い場所ですが、正当な知識の基準になるので、城好きには一度観といて欲しい城です。