関東の城探訪  東京都  滝山城        登城日 2014.08.24
 
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 所在地     東京都八王子市丹木町
 城郭構造   連郭式山城
 通称      
 築城年     大永元年(1521年)
 築城主     大石定重
 主な改修者  北条氏照
 主な城主   大石定重、大石定久、北条氏照
 廃城年     永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃か
 遺構       土塁、堀、井戸
 文化財指定  国の史跡
 

  東京の隠れた名城“滝山城”に行って来ました。
滝山城は北条氏照が八王子城を築く前に居城としていた城で、その規模の大きさと北条流の複雑堅固な構造から、城マニア、戦国マニアには名前の良く通った城です。
 
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北条氏も推してるんですね。八王子城にもあったっけ?
でも、三代目くらいまでにしといた方がいいかもね…。 
  
 滝山城が築城されたのは1521年(大永元年)の事で、この地の豪族:大石定重により築城されました。
 
 大石氏については、『岡ノ城は誰が造ったか』シリーズで少し触れましたが、西武蔵の八王子から所沢あたりを領する有力な豪族で、山内上杉家の重臣でもありました。
 
 北条氏の侵攻が始まると、小田原から上杉領の北武蔵、上野を最短で結ぶ街道が走るこの地は、戦略上重要なエリアになり、大石氏も北に隣接する高月城から、より堅固で大きな拠点を求めて築城したと言われています。
 
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小机城です… といっても納得してしまうほど、北条の城ですね
 
 1546年の“河越夜戦”で上杉体制が瓦解すると、大石氏は北条氏の傘下に入る事になり、北条氏康の二男の氏照を養子に迎える事で存続を図ります。
 
 氏康は家督は嫡子:氏政に譲りますが、軍事面は実質氏照(東方面)と三男:氏邦(北方面)に任せており、三兄弟のトロイカ体制で運営させました。
 氏照は最初こそ“大石氏照”を名乗りましたが、養父が没するとすぐ北条姓に復し、大石氏一族を家臣とする事で、小田原北条氏の家臣ではなく分家の立場を確立しています。
 
 氏照はまた地の利に恵まれた滝山城を、北条の軍団長に相応しい城に拡張・改修し、今に残る大規模かつ堅固な城を完成させました。
(弟:氏邦も藤田氏&鉢形城で同様に動いていますね)
 
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武田信玄が布陣した多摩川対岸の拝島 本丸からの眺めです
 
 1569年(永禄12年)9月、この滝山城に武田信玄率いる2万の大軍が押し寄せます。
 氏照は2千の守備兵で果敢に戦いますが、1日で三ノ丸まで攻め込まれ、落城を覚悟します。
 しかし、“威嚇”が目的の武田軍は翌朝には小田原城に向け去って行きます。
小田原城も攻囲4日で切り上げ、武田軍は帰途に付きますが、一泡吹かせたい氏照は帰路で待ち伏せ攻撃すべく兵を集めます。
 しかし、これも老練な信玄の戦術に振り回され、完膚なきまでの敗戦を喫してしまいます。
 
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広大な中の丸  たぶんここに御殿があったのでしょうね
  
 この教訓から滝山城では武田等の強敵とは戦えない…と考えた(?)氏照は、甲州街道の出口にあたる狭隘な深沢山に大兵を収容でき小勢でも守りやすい詰め城を持つ“八王子城”を築城し移ります。
 これに伴い、滝山城は廃城となりますが、八王子城も巨城である為に移転には年月を要したので、天正18年の秀吉の“小田原征伐”まで城の機能は維持されていたと思われます。
 
 
 
『滝山城を歩く』
 滝山城は八王子市北部の多摩川右岸、秋川から続く丘陵に造られています。
城域の殆どが都の自然公園として保護されているので、東京の城としては不自然なほど遺構がハッキリ残っています。
 
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関東有数の大規模な縄張りですが、やや古さも感じさせる。  戦国でも戦術過渡期の城かな 
  
 都の公園といっても、管理施設や駐車場はなく、雑多な人間が寄るのを防いでいて、地域の人達が安心して散歩できる格好のコースという使われ方が一般的な様です。
地域のニーズだけに振るなら、八王子市の管理で良いのでは…と思いますね。
入口にあるコンビニの方が快くクルマを置かせてくれたので、事なきを得ましたが…。
 
 
 さっそく大手口から登城して見ます。
まず感じるのが“見慣れた北条の城だなぁ”という事で、先日訪ねた小机城や武蔵松山城に瓜二つの構造が続くイメージです。
平山城でも山自体がそう険しくないので、防御の小郭が無数に点在しており、この辺りのゴチャゴチャ感は山内上杉時代の築城なのを彷彿とさせますね。
 
 どんどん進んで行くと、ゴチャ感の中にもメリハリの効いた深い空堀と高い土塁が出てきます。
この辺が北条の改修した部分で、戦術の変化に対応した痕跡だなと、感心しながら見て行きます。
 
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説明看板類は充実しています
 
  三ノ丸→千畳敷→二ノ丸→中ノ丸へと続く郭と堀の構造は、郭の規模も大きくなり、当時としては一級品に違いありません。
 大きな郭がデン!デン!とあり、郭個々が砦機能を備える鉢形城の方が設計の新しい構造ですが、此処より八王子城の方が強力か? という疑問がふと沸きます。
 
 本丸下の御殿跡と思われる中ノ丸が一番広く、ここに全体図の看板があります。
『こりゃ2千ほどの兵で守れる城じゃないな…』というのが一目瞭然で、序文で書いた『信玄に攻め込まれ、落城を覚悟した…』というのはおそらく事実に反しています。
 
 大軍の攻城には、守り口の守備兵もそれなりに厚くしないと突破されてしまいますから、予め2千で守れる防衛ラインまで引いて守った… 三ノ丸では鉄砲での抵抗程度で、すぐに二ノ丸に退いて守った…というのが事実ではないかな。
 こういう事は現場を見ないと判らない事で、他の人の記述を鵜呑みにして、軽々にコメント書いてはいけないなと、反省しきりです。

今回の新たな疑問、八王子移転の真相については、また木の葉が落ちた冬に再訪してジックリ調べたいと思います。
 
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多摩川対岸から見る滝山城址  城郭の有無はまったく判りません