真田昌幸の足跡を巡る~甲斐府中 ①
 
 また真田昌幸の追っ掛けに戻って、甲府に行って来ました。
近年、甲府は気候の話題が多いのですが、この日も35℃を超える猛暑で、日陰を選んでの散策です(汗)
 
 7歳でこの地に来た昌幸は何処で、何を見て暮らしていたのか…がテーマです。
 
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 7歳で府中にやってきた昌幸は、まず真田屋敷に入り、日を置かず信玄の近習として御殿に上がります。
 近習の勤めの詳細は判りませんが、人質と将来の有力家臣としての行儀見習い兼教育…という目的を考えれば、御殿の何処かで同僚と起居を共にしながら、御屋方様の世話をしてた事でしょう。
 
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躑躅ヶ崎館跡(武田神社)から甲府駅まで続くまっすぐな“武田通り”
堀に架かる橋と石段は遺構の土塁を潰して造ったもの。
館跡は江戸時代を通して荒れ果てていましたが、“武田信玄”を祀る神社が無い事を憂えた明治天皇の肝煎りで跡地に神社が建立されました…が、なんか違う。
 
  躑躅ヶ崎館跡(武田神社)の入り口に上のイラスト看板があります。
専門の方が考証しながら描かれたものの様ですから、この画を引用させて頂いて、暮らした場所を想ってみます。
 
 北西からのパースなので、多少なじみ難いのですが、主郭が現在の武田神社で、ひときわ大きな建物が主殿で、両脇のが副殿および会所と考えていいでしょう。
その北は奥向きなので、たぶん塀を隔てた東の長屋か南の土塁際の長屋に、小姓部屋があったと思われます。
 
 7歳~12歳頃の昌幸は、ここで同僚と暮らしながら交代で御殿に勤めていたのでしょうね。 郭内で稽古や勉学に励みながら、登城して来る家臣や警護の兵士達と談笑し交流する姿が眼に浮かびますね。
 
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西曲輪現況  ただの広場ですが土塁を含め手が入らない分妄想できる場所です
 
 
 13歳頃になると近習の仕事も、秘書的により多岐にわたって来ます。
その頃は隣接の西曲輪か堀外に独身寮的な長屋が与えられた事でしょう。
あるいは、父:幸隆の真田屋敷から通ったかも知れません。 いわゆる“部屋住み”ですね。
 
 そうなると、人質としての拘束が外れてしまいますので、変わりにたぶん弟か兄:信綱の嫡男が近習に入ったんでしょう。
そうして幼い頃から人質を見極めて、家督相続に意思入れして行ったんでしょうね。
長篠の後の昌幸の相続も、そうした過程を踏まえて自然に決まったのかも…。
 
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西曲輪北の枡形と土橋  最近手が入って、土と石が積み増しされてる様です
 
 ただこの画は残念な事に、その当時の姿を描いたものでは無いんですね。
周囲に幾つかの曲輪が増築され、4箇所ある馬出しは武田流では無いし、主郭には天守台まであるから、徳川氏支配の時代と考えた方が良さそうです。
 
 さて、昌幸は15歳の頃に元服し、信玄の旗本として川中島で初陣を飾ります。
役割としては身辺警護と使い番(伝令)などですが、当然“自立した大人”扱いですから、役宅が与えられます。 しかし、16歳では“武藤家”に養子に入る形で結婚します。(妻は武藤家の娘ではないが…)
 
 武藤家の屋敷が何処にあったのか、いろいろ調べましたが、残念ながらまだ突き止めていません。
ただ、28歳で真田家を継承するまでは、普通に武藤家の屋敷に住んでいたと思います。
 
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武田24将屋敷配置図
信玄の頃の24将で、武藤喜兵衛尉の名前はありません。
館の大手(右側)には錚々たる名前が並び、真田弾正忠(幸隆)の名も見える。 また、館の東には真田源太左エ門(信綱)が独自に屋敷を構えている。 
 
 
 “長篠の戦”の後、つまり武藤家を出て真田を継いだ後の屋敷ですが、これは当然、幸隆の屋敷を継承してると見て間違い無いでしょう。
一旦は信綱が住んだかも知れませんが、大手門の南を重臣の穴山、高坂、甘利といった衆と並んで固めるのは、当時の真田の地位からして自然に思います。
 
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駐車場の片隅に申し訳無さそうに立つ真田幸隆屋敷跡の看板  普通こうゆうのは、ど~ンと石碑でもいいのに…。
 
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空き地で雑草にまみれる高坂弾正
 
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地権者の理解が得られないのか、鬼美濃どころか信繁までも歩道のしかも車道側に建っています。 甲府市民にとって彼らは何なんでしょう???