関東の城探訪  神奈川県  小机城     登城日2014.07.13
 
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 太田道灌のシリーズ、たぶん最後になると思いますが、小机城にやって来ました。
 
  九品仏から自由が丘に出て、東急東横線に乗り換えて多摩川を渡ります。
多摩川が武蔵国と相模国の境だとずっと勝手に思っていましたが、さらに南の
横浜まで武蔵国なんですね~。
 菊名で横浜線に乗り換え、2駅で小机駅に着きます。
横浜マリノスの本拠地のスタジアムがあるので、新しい立派な駅舎です。
 
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小机駅からの小机城遠景
左の谷間に登城口があります
  
 小机駅を北口に出て、線路沿いに西に向くと、前方にこんもりとした小山が見えます。それが小机城址なのですぐに判ります。
横浜市内でもこの辺りは田畑が広がっていて、見通しの良い線路沿いの道を20分ほど歩くと、山裾に着きます。
 
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登城口    辺りは住宅団地で、城山の斜面まで住宅が建ち並んでいます
 
 小机城は15世紀初頭の築城と言われますが、記録に出てくるのは太田道灌に攻められた“長尾景春の乱”が最初で、矢野兵庫助という地の豪族が城主だった様です。
 
 矢野兵庫助は乱の初期から景春に組しており、前年、道灌が相模攻略に赴いた隙に河越城を攻めますが、撃退されています。
道灌の豊島氏攻めの後、豊島氏の残党が小机城に合流して、無視できない勢力になった事から、道灌に攻められたものと思われます。
 
 道灌はまず鶴見川を挟んだ北岸に陣を敷きますが、長期戦になりそうな為、地続きの南側に陣所を変え、城兵をおびき出して野戦に持ち込み、例の如く快勝しています。
この戦闘の目的が、抵抗勢力の掃討戦だった事もあり、籠城した夥しい数の兵が殺戮された様です。
 
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深い堀と土塁が続きます
最近久しく見てない本格的な城址です
  
 小机城址に登って行きます。 鬱蒼とした樹木に覆われた小山で、昼なお暗くジメッと湿気の多い山中ですが、樹木の多くが竹林ですから地面の見通しは良く、地形がハッキリ確認できます。
大きく三つの郭に分かれ、その間を深く幅広い空堀が走っていて、適度にウネリを造っていて、要所に櫓台を配置しています。
 
 これ、どっかで見た城だよなぁ…と考える間もなく、完全に北条の城です。規模の大小はあるものの、小田原の“小峯の大堀切”の景色ですね。
 落城後にしばらく廃城になっていましたが、北条氏綱の侵攻後は北条の城として大きく改変・整備された様で、矢野兵庫助の痕跡はたぶん跡形も無いんでしょうね。
 
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櫓台も高い
 
 跡形も無いといえば、城内を第三京浜道路が貫いていて、道灌が詠んだ
通り、城が散りぢりになっています。
周辺の土地の様子を見れば、『何も此処に通さなくても…』と思うのですが、史跡指定がなくて、用地買収しやすい山林は狙われるんでしょうね。
 
 現況では『小机城址市民の森公園』となって遊歩道が整備され、本丸、二ノ丸広場には椅子やテーブルも配置されています。 案内看板も小学生でも解る記述なのですが、よく晴れた土曜日の昼過ぎにも拘わらず、城内では誰にも遭いませんでした。
 
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整備された二ノ丸広場だが 誰も居ません
 
 北条氏綱が武蔵に侵攻すると、この小机城が前線拠点として重用され、以後の江戸、河越、葛西の争奪戦を支えます。
氏綱はここに重臣の笠原為信を配置し、近郷の地侍を結集した“小机衆”と呼ばれる軍団を編成し、民事と軍事両面での支配を確立して行きます。
 
 前線が北関東に移った後は、北条一門が小机城主を務めますが、北条氏の支配期を通して、重要な拠点として機能して行きました。
1590年の城主は北条氏光でしたが、氏光は足柄城守備を命ぜられ、その後は小田原に籠城した為、小机城は抗戦する事なく落城しています。
徳川家康の入封と共に廃城になりました。
 
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城内を分断する第三京浜