太田道灌という武将 【前編】
ここ最近の蠢動の中で、間接的に太田道灌という武将を調べる事が多くなっています。
名前は以前から知っていて、優れた武将なのも認識していましたが、正直ここまで凄いとは思いもよりませんでした。
今回はこれまで得た知識で、太田道灌の人物像に迫ってみます。
今回はこれまで得た知識で、太田道灌の人物像に迫ってみます。


左:川越市役所 右:日暮里駅前の道灌像
道灌は扇谷上杉家の家宰の家に生まれて、嫡男として幼い頃から高度な教育を受けた環境の良さがありました。
父:太田資清という人がまた文武に優れた人で、山内家家宰:長尾景仲と協力して関東管領:上杉家の治政を盛り立てた真の功労者と言えると思います。
そんな環境の中で成長した道灌は、様々な知識と薫陶を受け、また父に従っての戦場での指揮や河越城、江戸城の築城など、実践の場を経験する事で、武将としての器を大きく育てて行ったのでしょうね。
父:太田資清という人がまた文武に優れた人で、山内家家宰:長尾景仲と協力して関東管領:上杉家の治政を盛り立てた真の功労者と言えると思います。
そんな環境の中で成長した道灌は、様々な知識と薫陶を受け、また父に従っての戦場での指揮や河越城、江戸城の築城など、実践の場を経験する事で、武将としての器を大きく育てて行ったのでしょうね。
道灌の55年の生涯のうち、特に前半はあまり記録が無い様で、足取りを知る手掛かりが有りませんが、14歳で元服し、24歳の時に太田家の家督を継いでいます。

太田氏の居館があった品川の御殿山
初陣の記録も判りませんが、“永享の乱”の時はまだ7歳ですから有りません。 “分倍河原の戦”の時はすでに23歳で、その翌年には家督相続ですから間違いなく出陣してるでしょう。
おそらく資清と景仲が鎌倉公方を襲った“江ノ島合戦”(18歳)あたりの初陣が妥当なタイミングですね。
いずれにしても、戦果のほどは判りません。
おそらく資清と景仲が鎌倉公方を襲った“江ノ島合戦”(18歳)あたりの初陣が妥当なタイミングですね。
いずれにしても、戦果のほどは判りません。
道灌の武将としての実績が顕れるのは、家督相続した後になります。
この時期、鎌倉公方:足利成氏は幕府の派遣した今川範氏軍により、下総古河に追いやられ、利根川を挟んで古河公方vs上杉連合の緊迫した状況でした。
そんな中、扇谷上杉家は政真が幼君のため、父:資清は“家宰”に専念せねばならず、自領の経営は道灌が担う事になります。
そんな中、扇谷上杉家は政真が幼君のため、父:資清は“家宰”に専念せねばならず、自領の経営は道灌が担う事になります。
こうした、相続早々の厳しい状況というのは、実はとてつもないチャンスという見方も出来、道灌は古河公方勢の下総の千葉氏に備えて、領地を東に拡げ、江戸城を築きます。
太田氏の元々の領地は少し南の品川あたりで、江戸には江戸氏という小豪族が居て、移転させねばなりません。
北隣には豊島氏という古くからの勢力があり、また西の内陸には吉良氏という将軍に連なる家柄の領地もありました。
江戸城築城&移転は若い道灌にとっては大事業で、おそらく硬軟織り交ぜた微妙な折衝があった事でしょう。
北隣には豊島氏という古くからの勢力があり、また西の内陸には吉良氏という将軍に連なる家柄の領地もありました。
江戸城築城&移転は若い道灌にとっては大事業で、おそらく硬軟織り交ぜた微妙な折衝があった事でしょう。

江戸城西之丸(皇居内)に残る大田道灌の痕跡 “道灌濠”
家督を継いで15年目の1471年、古河公方勢が武蔵を突破して長駆堀越公方を急襲しよう…という事件が起こりました。
上杉勢の素早い応戦で、相模で喰いとめ、追い返す事に成功しますが、この時の道灌の動きは判りません。
上杉勢の素早い応戦で、相模で喰いとめ、追い返す事に成功しますが、この時の道灌の動きは判りません。
翌年、今度は上杉勢が古河城を攻め、一時城を占拠しますが、この時もどう動いたかは判っていません。
しかしながら、その5年後には“今川家の内訌”に全権代表として派遣されてますから、きっと前線で指揮を執り、戦術眼を養って、認められる存在になっていた…という事でしょうね。
しかしながら、その5年後には“今川家の内訌”に全権代表として派遣されてますから、きっと前線で指揮を執り、戦術眼を養って、認められる存在になっていた…という事でしょうね。
記録のある道灌の戦歴としては“長尾景春の乱”の時のものだけという事になります。

利根川をはさんで、足利氏(古河公方)の勢力と上杉氏の勢力が関東を二分していました。
上杉氏が二つに分かれて、三竦みになるのはもう少し先のこと。
“長尾景春の乱”について簡単に説明すると、山内上杉家宰の職をめぐる争いで、継承できなかった景春が叛旗を翻すと、山内上杉家は二つに割れてしまいます。
扇谷上杉家は山内上杉家を支える事で一致しますが、在地の豪族の殆どが景春につき、そして景春は古河公方とも同盟を結んで、上杉包囲網を作ってしまいます。
上杉勢の圧倒的不利の中、頼みは幕府の応援ですが、ちょうど“応仁の乱”の最中で、幕府に援兵を出す力はありません。
扇谷上杉家は山内上杉家を支える事で一致しますが、在地の豪族の殆どが景春につき、そして景春は古河公方とも同盟を結んで、上杉包囲網を作ってしまいます。
上杉勢の圧倒的不利の中、頼みは幕府の応援ですが、ちょうど“応仁の乱”の最中で、幕府に援兵を出す力はありません。
ーー後編へ続くーー