九州の城探訪 福岡県 小倉城 登城日 2013.07.13

所在地 福岡県北九州市小倉北区
城郭構造 輪郭式平城
通称 勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城
築城年 1587年(天正15年)
築城主 毛利勝信
主な改修者 細川氏、小笠原氏
主な城主 細川氏、小笠原氏
廃城年 慶応2年(1866年)
遺構 石垣、堀
文化財指定
城郭構造 輪郭式平城
通称 勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城
築城年 1587年(天正15年)
築城主 毛利勝信
主な改修者 細川氏、小笠原氏
主な城主 細川氏、小笠原氏
廃城年 慶応2年(1866年)
遺構 石垣、堀
文化財指定
仕事の出張で小倉に宿泊しました。
初めての訪問ですが、小倉は北九州市で一番の繁華街で、楽しそうな所がいっぱい有ります。
ハメを外したくもなりましたが、ホテルから見えた小倉城が気になって、結局は早寝早起きし、朝飯前の一時間で訪ねて見ました。
初めての訪問ですが、小倉は北九州市で一番の繁華街で、楽しそうな所がいっぱい有ります。
ハメを外したくもなりましたが、ホテルから見えた小倉城が気になって、結局は早寝早起きし、朝飯前の一時間で訪ねて見ました。
小倉城の起こりは、1587年(天正15年)、九州平定に功のあった豊臣秀吉の臣、毛利勝信が6万石で入封し、総石垣の居城を築いたのが始まりです。
その後、勝信の子勝永は関ヶ原の戦で西軍について改易となり、豊前には細川忠興が40万石で入ってきます。
その後、勝信の子勝永は関ヶ原の戦で西軍について改易となり、豊前には細川忠興が40万石で入ってきます。
忠興は当初は黒田氏の居た中津城を居城としますが、領地の南に過ぎるのと、石高に対し手狭な事から、小倉城を大改修して居城とします。
この時、縄張りを梯郭式から輪郭式に改め、五層の天守を上げました。
1632年、細川氏が熊本に去ると、播州明石から小笠原忠真が入って来て、以後は小笠原氏が代々受け継いで行きます。
維新直前の1866年、第二次長州征伐で幕府側の小倉藩は長州藩の高杉晋作率いる奇兵隊の攻撃を受けます。
緒戦は熊本藩の支援を受けて押し返したのですが、前面に出てしまうのを嫌った熊本藩が撤退すると持ち堪えられず、自から城に火を放って退去し、領内の香春で布陣しました。
緒戦は熊本藩の支援を受けて押し返したのですが、前面に出てしまうのを嫌った熊本藩が撤退すると持ち堪えられず、自から城に火を放って退去し、領内の香春で布陣しました。
小倉城はこのまま長州藩に占領されて明治維新を迎えるので、実質落城=廃城となりました。
小倉城を歩く
朝5時起きでホテルを出て、小倉城に向かいます。
紫川の河畔に出ると、さっそく対岸の奥に天守が見えます。
朝5時起きでホテルを出て、小倉城に向かいます。
紫川の河畔に出ると、さっそく対岸の奥に天守が見えます。
細川40万石の城で、現在も内堀から中の本丸、北ノ丸が城址公園で残っており、復興ながら当時と同規模の五層天守もある城が、なんで百名城じゃないのか…不思議なくらいですが、その理由なんかも探ってみたいと思います。

外堀の紫川に架かるも木調のときわ橋 これを渡って行きます

縄張り図 水城というか、海城ですね

本丸へのアプローチをブロック敷きにしてしまう? 歩きやすいけど

天守の下 復興天守は厚化粧。
当時のは破風は上の唐破風だけだったそうです 最上階のガラス窓と戸袋は何とも言えません…。
石垣の天石と建物のラインがぐにゃぐにゃ。木造だとこうはなりませんね。
『コンクリ天守です! 何か?』的な感じ

朝の6時では開いてませんね

堀と石垣は40万石の城にしては相当ショボく見えます 高さが取れなければ幅が必要でしょ

現存櫓? と思ったら、それに似せた宗教施設の様です

これらもそうで、非常に紛らわしい

城内にあるんだから、なんとか城の姿を…という気持ちは判りますが、それならちゃんと造ればいいのに。
結局、石垣と堀以外はホンモノが何も無いんですね。
在る建物は遺構とは程遠いシロモノで、これでは百名城は無理ですね。