関東の城探訪  埼玉県   岡の城             登城日 2014.03.23
 
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所在地      埼玉県朝霞市岡字城戸382
城郭構造     連郭式平城
通称      
築城年      室町時代
築城主      武蔵千葉氏か太田氏
主な改修者  
主な城主   
廃城年      室町後期
遺構        曲輪、土塁ほか
文化財指定
 
 
  自宅に近い手近な城で、埼玉県朝霞市の“岡の城”に行って来ました。 
有る事は知っていましたが、全国区の城でもないので、後回しになっていました…。
 岡の城については、あまり決め手となる資料がなく、他の人のブログデータが頼りですが、太田道灌築城との伝承もあるみたいですね。 
とにかく現場を見て、誰が何の為に造った城なのか考証してみたいと思います。
 
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黒目川越しに見る岡の城址 これは舌状台地ではなく単丘ですね
 
 岡の城があるのは朝霞市の北の外れで、荒川の支流の黒目川に隣接して有ります。
この黒目川もすぐに柳瀬川に合流し、またすぐに荒川の本流に注ぎます。 すなわち、河川改修前の当時からすれば、“荒川の氾濫原の南の岸の城”というロケーションですね。
 
 立地を“朝霞駅方面から伸びる舌状台地を連郭で区切った…”的な紹介文もありますが、実際には舌状に続く台地ではなく、単丘です。
 
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縄張り  三つの連郭が空堀で仕切られ、一の郭が一番高く、二の郭が一番広い
 
 
 次に“岡の城”という呼び方ですが、
5kmほど北の志木市に“柏の城”があり、
同じく5kmほど西の所沢市に“滝の城”があります。 
つまり、これらの城に共通点を持つ人達が、その特徴で○○の城と呼び分けてた可能性がありますね。
*東の千葉氏や南の豊島氏は地名でネーミングしていますし。
 
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一と二の郭間の空堀  今は木橋が架かっているが…
 
 最後に城の縄張りを遺構から見ます。
比高差15mほどの丘の上を削平して郭が造られてて、郭は空堀で仕切って三つに分かれています。
空堀から続いて帯曲輪状の通路が三つの郭を巻いていて、空堀は通路も兼ねていた様です。
そこから下は麓まで急な斜面で土塁の役割を果たしています。
 
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公園内の遊歩道を示す縁石
膨大な量の同じサイズの丸い河原石が使われている
  
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大きさは“投石用”サイズ
 
  斜面には現在は“矢竹”が繁殖しています。 
古い城にはどこでもある代物だし、当時のままかどうか判りませんが、長期間常備の兵が居て、武器の生産をしてた…という事になりますね。
 
 山上の郭は結構な広さを持ち、千人単位の籠城も可能に見えます。 
しかし単丘の城は水に困るから、多人数の長期籠城には向きません。
気付いたのは、丸い河原石が大量にあり、遊歩道の縁石に使われています。
 このサイズだともっと上流にしか無いので、近年に建材として持ってきたか、それとも投石用に集めてあったのを流用したのではないかな?
だとすれば、兵士以外の籠城をも前提とした用意ですね。
 
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一の郭から荒川方面を見る
この郭に物見櫓台があるから、敵はこちらに居る? 
 
 
 以上を総合して見ると、まず北条の城ではない、もっと以前の弓矢の時代の城です。 
太田道灌の作だとすれば、規模から河越と石神井の中間の前線基地的な用途が考えられますね。
 ともかく、荒川以南の勢力が以北の勢力に備えて造った城には違いないでしょうね。 そうすると、誰になるのかな?