関東の城探訪 埼玉県 岩付城 登城日 2013.08.24

所在地 埼玉県さいたま市岩槻区
城郭構造 総曲輪式平城
通称 岩付城、白鶴城、浮城
築城年 1478年(文明10年)
築城主 成田正等
主な改修者 北条氏
主な城主 成田氏、太田氏、北条氏、大岡氏他
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存門、土塁、曲輪、空堀
文化財指定
城郭構造 総曲輪式平城
通称 岩付城、白鶴城、浮城
築城年 1478年(文明10年)
築城主 成田正等
主な改修者 北条氏
主な城主 成田氏、太田氏、北条氏、大岡氏他
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存門、土塁、曲輪、空堀
文化財指定
次に岩付城にやって来ました。
ここも忍城と同じ様に、北条期、徳川期を通じて関東支配の重要な拠点として機能した城です。
戦国初期の岩付の地は両上杉氏と古河公方が競う係争地で、岩付城の起こりもハッキリしないのですが、扇谷上杉氏の太田道灌の築城が最初とも言われています。
ここも忍城と同じ様に、北条期、徳川期を通じて関東支配の重要な拠点として機能した城です。
戦国初期の岩付の地は両上杉氏と古河公方が競う係争地で、岩付城の起こりもハッキリしないのですが、扇谷上杉氏の太田道灌の築城が最初とも言われています。
1500年頃には古河公方配下の渋江氏が支配していましたが、1522年に扇谷上杉氏の太田資頼が奪取し、以後太田氏が城主として支配します。
太田氏は後に北条氏の侵攻を受けるとこれに降って、属将となって続きますが、嫡流が絶えると北条氏政は岩付を直轄地とし、岩付城には子の氏房を入れます。
北条氏は岩付城を小田原城にも匹敵する、総構えの堅城に大改修するのですが、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では氏房が主力を連れ小田原城に詰める中、浅野長政、本多忠勝ら2万の兵に攻められ、2千の守備兵で抗戦するも、数日間で落城してしまいます。
北条氏の滅亡後は、徳川の譜代大名が城主としてコロコロ換わって行きますが、江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光が入封以来は大岡家の城として維新まで続きます。

江戸期の縄張り 右下の新曲輪と沼が

こんな形で残してあります
岩付城を歩く
岩付城は東北道“岩槻IC”からR16で東に進み、元荒川の手前の交差点を左折した奥にあります。
旧新曲輪のエリアが『城山公園』として整備されており、道沿いに広い駐車場も完備しています。
岩付城は東北道“岩槻IC”からR16で東に進み、元荒川の手前の交差点を左折した奥にあります。
旧新曲輪のエリアが『城山公園』として整備されており、道沿いに広い駐車場も完備しています。
岩付城は別名“浮城”と言われる様に、元荒川と直結した広大な沼の中の島に主郭部を持つ水城で、その周りの支郭と城下を配した城でした。
その主郭部は今は住宅地に変貌して失われていますが、城域の南東に位置する“新曲輪”がほぼ全て残っており、周囲の沼も埋められてスポーツ公園が造られ、『城山公園』として市民の憩いの場になっています。

内堀の沼の跡はきれいな公園になって残りました
総構えを持っていた事は前に述べましたが、その総延長は8kmと言いますから、小田原城に1km足りないだけで、広大な城です。
総構えはたぶん氏房の頃のもので、果たしてそれだけの城域を守れる兵力を持っていたかというと、まずあり得ないので、北条氏として北関東の勢力と対峙する際の兵站基地の役割を担っていたのではないか…と思います。
岩付の巨城を知るのに1つの曲輪では心許ないのですが、新曲輪跡を見てみます。

南の外郭土塁 たぶん畝堀があったはず

土塁上は郭になっています
小田原征伐の時は兵力不足でたぶん放棄されてた?

移築された主郭の城門

これも立派な文化財