関東の城探訪  埼玉県   忍城                 登城日 2013.08.24
 
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所在地       埼玉県行田市本丸17-23
城郭構造     連郭式平城
通称         忍の浮き城、亀城
築城年        15世紀後期
築城主       成田氏
主な改修者     成田氏、松平氏ほか
主な城主       成田氏、松平氏ほか
廃城年        1871年
遺構          土塁、堀、移築門
文化財指定 
 
  関東七名城のひとつ“忍城”です。
忍城のある埼玉県行田市の辺りは関東平野でももう真っ平らな地形で、西の嵐山地域とは荒川で隔てられており、地域の支配拠点として古くから“平城”が発達しました。
忍城はその中でも代表的な平城で、戦国~江戸期を通して機能し続けました。

忍城は戦国初期、山内上杉氏に属するこの地の豪族:成田氏が、扇谷上杉氏の属将:忍氏を破って、築城した事に始まります。 成田氏は鎌倉時代からの北武蔵の御家人で、千葉の成田とは関係ありません。
以後この地を基盤に忍城を守り切ります。
北条氏の侵攻にも頑なに抵抗し、越後の上杉謙信と結んで戦いますが、謙信の関東管領就任の場で謙信と諍いを起こし、今度は北条氏の属将として反北条勢と戦って行きます。

映画『のぼうの城』でご存じの様に、豊臣秀吉の小田原征伐では秀吉の奉行衆の軍に囲まれ、水攻めされますが、留守居の成田長親以下よく耐えて、小田原開城後に城主の説得により開城するまで頑張りました。
その後の成田氏は当主:長氏以下蒲生氏郷に仕えますが、娘の“甲斐姫”が秀吉の側室になって寵愛を受けた事から、下野烏山2万石で大名に復帰します。*2代後に改易
 関東が徳川領になると家康の四男の松平忠吉が10万石で入り、次いで老中・阿部忠秋が入ると城と城下を整備して、忍城下繁栄の基礎を造ります。
江戸後期には桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入って明治を迎えました。
 

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郷土博物館の入り口
本丸跡にあり、R125が東西に貫通している。
本丸の北半分は今は東照宮
 
 
 
忍城を歩く
 忍城へのアクセスはクルマにしました。
最寄駅は秩父鉄道の“行田市”で、高崎線の熊谷乗り換えです。 駅から城址までも1kmほどで、道程の忍の城下も良い雰囲気があって捨てがたい所ですが、次の訪城も考えてクルマ選択です。
高速道路が無いのでR17を延々と北進し、鴻巣からバイパスで向かいます。 目指すは復興天守のある“郷土博物館”。
 
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到着してまず眼に入るのが天守閣…ではありません、これが郷土博物館。
復興天守の様ですが、譜代の城に天守は無理ですよね。
忍城に三階櫓はあったものの、場所が違います。
  
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 鐘楼は復元の様です
 
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これは復元ではなく現存の移築門   ただし城外の藩校の表門らしい
 
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本丸土塁の一部が残っています
 
 
 少し南に離れた“水城公園”にも行ってみました。 ここも城地の一部だったらしく、水の城の雰囲気が一番よく判ります。(冒頭の写真も)
 
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こちらも土塁が少し残っています
 
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古代ハス?