小田原城 ~ もうひとつの小田原攻城戦
 
 小田原征伐は“名胡桃事件”を契機に豊臣秀吉が催した“北条討伐戦”です。
全国から動員した諸大名の軍勢は21万とも言われ、包囲3ヶ月、5万で籠もる北条方を降伏に追い込みます。
 よく北条ファンの間で、この時の戦い方が議論されていますが、動員のし方や陣取り、各大名の動かし方などを見てみると、本当に“北条討伐”が目的だったのか…という疑問が湧いてきます。
 
小田原城攻囲陣取図
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 小田原城にある陣取図を見てみます。
石垣山に拠る秀吉以下、諸将がグルリ取り囲んでいますが、幾つか気付く事があります。
 まず、直前まで北条と同盟だった徳川家康勢は東の平地に配置されています。
そして、その北には玉虫色の織田信雄。
北と西側は箱根への道を塞ぐ様に、豊臣系の大名が鶴翼に重厚に配置されています。
 
 秀吉にとっての“精神的の仮想敵”はこの時も徳川家康であった筈です。 ほぼ天下を手中にした秀吉に、もし家康が戦いを挑むとしたら“反秀吉勢力”を結集して戦うしかありません。
 偶然(ではないが)、この陣取図を東西に分けて、その構図になっています。
誘っている様に見えませんか?
 
 
 それでは、その構図に置き直してみます。
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 北条は5万の兵力で城内に居ます。 
徳川はほぼ最大動員の3万の大兵を動員しているし、玉虫色大名の織田信雄も1万7千を連れて来ています。
 都合9万7千…戦力としてはほぼ拮抗しますね。
こうなると小田原城は落ちません。
 
 しかし、家康が天下を取るには秀吉方を攻めて討ち取るか、せめて大勝で敗走させ、寝返りを期待する必要があります。
そうすると高台に陣取る秀吉方が有利で、制海権もあり膠着戦になります。
 
 この時点では家康の指示待ちで黒川に待機してた伊達政宗も、2万の兵を率いて駆け付けるでしょうが、ここに名前の見えない秀吉軍の配置を拡げて見るとこうなります。
 
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 秀吉には韮崎を囲んでる“後詰め”が居ます。 関東の支城群を攻略しているのは盟友の前田利家と上杉景勝、そして直臣の奉行衆で、いつでも背後を襲える位置に居ます。
 上杉、佐竹、最上は国内に兵力を残しており、頼みの伊達もそう簡単には辿り付けません。
 大坂と京都では羽柴秀長と毛利輝元が後方撹乱に備えており、なんと徳川領には小早川隆景が乗り込んでいて、国と家族が質に取られています…。
 
 秀吉にすれば、自ら仕掛けた“小田原征伐”で、北条(200万石)だけでなく、あわよくば宿敵:徳川150万石)、織田(100万石)、伊達(100万石以上)をも一挙に片付ける事まで視野に入れたシナリオだったのでは無いかと思います。
 
 しかし、流石の徳川家康。 “勝てない”と判ると冷静な戦局の判断で自らを守ります。
旧北条領への転封の意向などは折込み済みで、北条は冷酷に棄てますが、伊達は秀吉に詫びを入れさす事で、自身の戦力の一部として温存する事に成功します。
 
 小田原征伐…実は『猿と狸の化かし合い』だったのではないかな?