日本100名城 №23  小田原城  二回目       登城日 2014.05.25
 
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所在地      神奈川県小田原市城内6-1
城郭構造    平山城
通称        小峯城(小峰城)、小早川城
築城年       1417年(応永24年) 室町時代
築城主       大森 頼春
主な改修者   上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主     後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年        1871年(明治4年)
遺構          石垣、土塁、堀
文化財指定    国の史跡
 
 
 小田原城に再訪です。 
前回の訪城では江戸期の“近世小田原城”しか見られなかったので、今回は北条の“古小田原城”に絞って廻って見ます。
 
  戦国期の小田原城は上杉禅秀の乱以降、駿河の大森氏が奪取して移り住み、支配していましたが、1500年頃、今川の客将で伊豆を支配していた北条早雲が攻め落として、以後北条五代にわたる200万石の本拠地として、南関東の中心となります。
 
 北条氏は順次城の拡張・強化を行ない、最後には総延長9㎞もの総構えを持つ“戦国一の巨城”を完成させました。
 しかし1590年、天下統一を目指す豊臣秀吉が20万余の大軍勢で押し寄せ、攻囲3ケ月、開城に追い込みます。
 
 戦後、北条の旧領は徳川家康に与えられ、江戸を本拠とした家康は大久保忠世に4万5千石で小田原を与えます。
 忠世は大きすぎる城の総構えを廃し、海と街道に近い居館エリアに限って城を再縄張りし、総石垣の近世城郭に造り替えました。
 
 北条氏が築いた大城郭の大半は、拡張する市街に飲み込まれ、或いは自然に還って失われて行きましたが、難攻不落を誇った郭塁の規模は巨きなもので、山間部を中心に当時を偲ぶ遺構が彼方此方で見る事ができます。
 
 
 
小田原古城を歩く
1.アプローチ

 今回も新幹線の小田原駅スタートです。
まず駅の観光案内所を訪ね、パンフを探しました。 
最近は古城の散策もニーズがあるらしく、『惣構えを廻りたい』旨を伝えると、地図に“現存土塁”が書き込まれたパンフを出してくれました。 
これに沿って歩いてみます。
 
 しばらく眺めて見ましたが、現存するのは殆どが“山のエリア”で、有名な“小峰”が中心となりますね。
 まず目指したのは“現小田原城”の西側のある“報徳神社”。
ここをスタートに時計廻りで歩く事にします。
 
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 本丸西の空堀 小田原新城裏側の守りは手抜きが多い
  
 
2.本丸西~新堀土塁
 二宮神社のある場所は本丸の堀底の様で、空堀が西側からグルリと北の線路の方向へと続いています。
 堀の外側を“足柄街道”が北へと延びていて、古城の主郭の下を通って小峰の方へ行くので、これを歩いて行きます。
 道はすぐに登りになり、線路が下をトンネルで潜るのですが、この高台は“天神曲輪”の跡です。
もちろん今は完全に市街地ですが。
 小田原駅を右手に見ながら、線路の上を通り越すと、右前方に古城の主郭が聳えています(住宅が張り付いた山ですが…)。
 
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古城の主郭の土塁下を登って行きます 向こうに天守が見え、高さ加減がよく判る
  
 その土塁下をなぞる形で北に登って行きます。
競輪場を過ぎて、相洋高校を左下に見ながら進むと、小峰の交差点に出ます。
 この地区は学校が多い“文教エリア”で、敷地に余裕がある分、地形の把握が容易ですね。
 この辺りは三ノ丸の“新堀”と呼ばれる郭だった様で、高校の向こう側が外郭の惣構えで、地形上土塁を築くというより、山の斜面を切り落とした感じの構造だった事でしょうね。
 
 ここを少し下ると“新堀土塁”が復元されて、公園になっていて、外郭土塁の雰囲気が見学できる様になっています。
 さすがに小田原城の外郭土塁だけあって大規模で、ここからだと石垣山が間近に見えます。
 
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新堀土塁
大規模な土塁と防御の郭が一体になっている
  
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堀土塁 説明看板の向こうに見えるのが石垣山
 
 
4.小峰大堀切
 もとの交差点に戻ると、そこから“小峰大堀切”が始まります。
これは小田原古城の外郭線の中でも、西に突出した出城の“御鐘ノ台”と本丸に繋がる郭内を仕切る空堀で、南北に三重の大きな空堀が走り、厳重に仕切られていました。
 
 現在もそのうち二重の堀跡が残り、古城の史跡として整備されて、たくさんの人がブログで取り上げてる様に、訪問者の絶えない“古城最大の名所”になっています。
 二重の堀だけでもシッカリ横矢が掛けられ、堀底は中で繋がってて、北条築城術は居城の小田原城にも活かされていますね(当たり前かw)
 
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複雑な折れのある大堀切 
 
 
5.御鐘ノ台
 郭外に“真田丸”の様な出丸が在ったとなると、見たくなるのが性分で、何はともあれ行って見ます。 
 外側の土塁を横切る形で狭い道路が西に続いており、それを行くと“御鐘の台”です。 
 
 三重目(いちばん外側)の空堀の跡地に“御鐘の台跡”の石碑がありました。 
御鐘の台という名前は、ここに鐘を置いて敵の動きを城内に報せた…という事らしくて、鐘楼の土壇らしき遺構にも見れますね。
 
 空堀自体はもう埋め戻されていますが、北側にはまだ畑地ながら堀跡らしき地形が確認できます。
 
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