日本100名城  №9  久保田城               登城日 2014.5.11
 
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所在地     秋田県秋田市千秋公園1-39
城郭構造    平山城
通称       矢留城、葛根城、秋田城
築城年     1604年(慶長9年) 江戸時代
築城主     佐竹義宣
主な改修者  
主な城主      佐竹氏
廃城年       1880年(明治13年)
遺構         土塁、堀、門、番所
文化財指定    秋田市文化財(御物頭御番所)
 
 
 弘前から特急“つがる”に揺られて秋田に向かいます。
この特急ホントによく揺れます。そしてよく停まります。大半の駅が乗降“0”でした。
2時間掛けて秋田に到着し、徒歩で久保田城に向かいます。
 
 
 久保田城も江戸初期の1603年に水戸から転封を命ぜられ入って来た佐竹義宣の築いた城で、義宣は初め秋田氏の居城だった湊城に入りましたが、54万石の家臣団と多数の美女が同行してる為にひどく手狭で、築城を決意しました。
 
 雄物川の支流沿いにあった神明山という小高い山に用地を決め、二重の堀に囲まれた梯郭式の平山城を造りました。
 この城も水戸城同様に石垣は無く、佐竹氏が持つ“土の城”の技術が駆使されていますが、堀は土塁の基壇に石垣を積んだ水堀となっています。
 
 佐竹氏に石垣のノウハウがあったかどうかは不明ですが、“西軍”の佐竹氏では指南する西国大名も無いだろうし、徳川に対する“遠慮”も作用したのでしょうね。
 同じ理由で天守の造営も無く、本丸南東の見晴らしの良い場所に櫓の替わりに書院造りの建物を建て、シンボルとしたそうです。
久保田藩も佐竹氏のみで明治を迎えます。

 久保田城は軍用地として存続が決まり、陸軍省の持ち物となりますが、実際に軍は駐屯せず、城下の大火などで建物が移築されたり、城内からの出火で大半の建物を失った状態で、明治23年に佐竹氏に払い下げられます。
 以後は本丸・二ノ丸跡を“千秋公園”として整備し、他の遺構は市街化されました。
 近年になり、城の遺構がいくつか復元され、僅かに城の名残りを取り戻しつつあります。
 
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高~いアーケード
 
 
 
久保田城を歩く
1.アプローチ

 久保田城跡の千秋公園は秋田駅の西400mの至近にあり、徒歩で向かいます。
 駅を降りたら西口へ向かいます。
構内の通路はそのまま繁華街の“仲小路”に降りて行き、その通りには異常な高さにアーケードが造ってあります。
 ピンと来たのは『ここで竿灯まつりをやるのかな?』でしたが、どうも違う様ですね。
 
 秋田といえば性格上“秋田美人”が思い浮かびますが、さり気なく気を付けて見ていると、確かに透き通る様な色白の美人女性がちらほら居ますw
 そんなこんなで雑念が沸いたせいか、またリュックをロッカーに預けるのを忘れてしまいました。
 
 人通りが減って少し歩くと、右手に千秋公園の森が見えて来ます。 
広小路通りを渡るとそこは公園の南東の角、もう大手口です。 
ここからアプローチすべきですが、そこから西にかけての南辺は外堀がキレイに残っており、中間に土橋の登城路があるので、そこを目指します。
 
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外堀 広いです
 
 
2.登城
 外堀の幅は7~80mほどあり、堀端には睡蓮が浮いていて、涼しい風が吹いてます。
堀沿いを進んで、県立美術館前が公園入口で、土橋が始まります。
 橋を渡ると三ノ丸の武家屋敷街ですが、今はもちろん両側に公共の建物が続きます。
 平地でしばらく歩くと両側に谷が現れ、左側は水を湛えた池があります。これが内堀の名残りでしょうね。
 
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わずかに残る内堀も雰囲気あります
 
 
3.佐竹資料館
 内堀跡を越えると二ノ丸でいよいよ千秋公園に入ります。
右手に折れながらの上り坂で、途中に“松下門跡”の看板があります。
 坂を登り切ると二ノ丸広場になり、右手に佐竹資料館の立派な建物がありました。
 
 まずは情報収集で入館。 
さっそくお馴染みの片膝を床几に載せた義宣公の甲冑画像が出迎えてくれます。
入館料は僅か\100、試しにコインロッカーは無いか聞いてみると、
『ロッカーはありませんが、公園を出るまで預かりますよ』との優しい返事。 受付のお姉さん(元)は秋田美人になりましたw
 
 身軽になって館内を拝観。 
テーマが佐竹氏だけに、展示品は充実しています。 
佐竹氏の兜の意匠は“掃除用具”が多いですね。
 
 
4.本丸
 資料館を出ると目の前に石段があり、本丸への大手道となっています。 登って行くと比高差20mほどで本丸に着きますが、入口には一ノ門が復元されていて、睨みを効かせています。
 これも二層の櫓門で、弘前城のそれと似通った意匠ですね。 
ただ新しいのがなんとも…。
 門の手前には江戸時代からの唯一の遺構である“御物頭番所”があります。 高床の変わった構造で、天井も高く取ってあります。部材が比較的新しく感じたので、修築がなされているのかな?
 
 本丸跡は神社意外に主だった建物は見られませんが、周囲に土塁をめぐらした、少し古い構造です。 
中央に銅像があるので、義宣公と思いきや、最後の藩主の義尭公でした。
戊辰戦争の折には“奥羽越同盟”に加わらず、苦労の多かった人の様です。
 
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満開のツツジ  植栽の綺麗な公園です
 
 
 本丸土塁上から二ノ丸庭園にかけての斜面には、ツツジが見事に咲いていて、土塁上のベンチはランチがてら寛ぐ人達でいっぱいでした。 
ほんと、ここは公園ですね。
 
 最後に復元されて新しい北西の“御角櫓”に行ってみます。
よく久保田城のシンボル的に紹介される櫓ですが、現れたのはなんと4層4階の天守建築で、最上階には望楼まで造ってあります。
 お陰で秋田の展望を楽しむ事が出来ましたが、資料館のジオラマでは確か二層の質素な櫓だったような…。 
史跡指定は秋田市だけだから、いいのか…。ちょっと気の毒なレベルなので、深く追求するのはやめましょう。
 
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隅櫓からは市内が一望できる
 
 
5.下城
 久保田城は城址の雰囲気を残した公園として綺麗に整備され、市民の憩いの場として存続しています。 
これを史実に照らして城址として復元するかどうかは秋田市の考え次第ですね。
 公正に名城という評価は難しいのでしょうが、ここを訪れて、“久保田城”として喜んで帰る多くの人達にとっては“アリ”なんでしょう。
ちなみに、訪問客を見る限り“県外の人”が多かった気がします。

 

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大魔神が居ました!