東海の城探訪 岐阜県  苗木城            登城日 2014.04.26
 
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所在地       岐阜県中津川市苗木
城郭構造     山城
通称        霞ヶ城、赤壁城
築城年      1532年(天文年間)
築城主      遠山直廉
主な改修者  
主な城主      遠山氏、森氏、川尻氏
廃城年       1871年
遺構          石垣、堀、井戸ほか
文化財指定     国の史跡
 
 
 百名城の岩村城に併せて、苗木城に行ってきました。
 
苗木城は最近よく歴史雑誌等に取り上げられています。
CG技術が普及して、色んな城の想像図が描かれていますが、苗木城の特色は、天然の岩塊を巧みに組み込んで、城館や防御施設が造られていた事です。
その結果、みんなが持ってる“城”の概念とはかなり違う復元画が出来上がり、驚きと興味を生んでいるという事の様です。
 
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苗木城CG復元画
戦国~江戸期の城郭としては異彩を放つその構造がとても興味をそそります
 
 
 苗木城は鎌倉時代から恵那郡の地頭だった遠山氏が、居城の岩村城を補完する砦を築いた事から始まります。
戦国中期の1532年、苗木遠山氏の直廉がこれを本格的に築城します。
この頃の遠山氏は織田氏との関わりが深く、直廉は信長の妹を娶っています。
 
 この後、武田氏が南進してくると微妙な地域となり、織田、武田両氏の間でバランスを取って生き延びるのですが、武田が滅び、信長が謀殺されると再び戦乱に巻き込まれ、遠山氏は森長可に追われて徳川家康の元に逃げ延びます。長可が“小牧・長久手の戦”で戦死すると、苗木城は川尻秀隆の居城となりました。
 
 遠山氏がこの地に帰り咲くのは遠山直廉の子友政の時で、“関ヶ原の戦”が始まると苗木城を攻め、奪取します。
戦後の論功行賞で友政は正式に“苗木藩主”に認められ、以後十二代にわたり転封すること無く、明治維新を迎えます。
 
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登城マップ “輪郭式山城” という感じ
 
 
苗木城を歩く
 
1.アプローチ
 クルマで中央道での移動です。
中津川ICで降りてR257を西進し、木曽川を越える“城山大橋”にさしかかると、対岸の右手に城址が見えて来ます。
橋を渡ると間もなく“苗木城跡”の看板があり、右折して入って行きます。 道なりに進むと目の前に“苗木遠山資料館”が現れます。
100名城でない“二流格”の城としては、道幅も広く、看板もしっかり整備されてて、とても訪れやすい城ですね。
 
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登城口にある“苗木遠山資料館” 駐車場も広く、登城の基地になりま
 
 
2.苗木遠山資料館
 駐車場にクルマを停めて、“軽登山装備”に換えて、まず資料館で情報収集。
入場料は\320ですが、資料館と苗木城のパンフをくれます。  
展示の目玉は苗木城の復元模型で、岩山を利用した堅固な砦機能と、城には珍しい“懸造り”を多用した居館の構造がよく判ります。
(撮影禁止のため写真はナシ。無断で撮ってる人も居たが…)
いつの時代のモノなのかは判りませんが、山上の本丸に籠る必要があった“戦国末期”の姿を復元したモノに違いないと思われます。 
模型の横に学術資料と思われる“苗木城跡見取図”のA3のコピーが置いてあり、自由に貰う事が出来ます。 縄張り図に建物の標記と用途が書いてあり、建物の構造やそこでの生活を想像する上で、とてつもなく親切なサービスです。
他の展示は武具甲冑や生活用品などですが、“陣屋大名”の規模なのを考えると、充実した方ではないかな。
 
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資料館裏手の庭園遺構  江戸期には此処が常御殿だったのでしょうか
 
 
3.三ノ丸へ
 資料館の裏手から登って行きます。 資料館の右手奥は古い庭園の跡になっていて、江戸期には主殿はここにあったのかも知れません。
石敷きの道を登って行くと左手に駐車場がありました。本来の城の駐車場はここだった様ですねw
 更に登って行くと、虎口の“竹門”があり、石塁に囲まれて喰い違いの構造になっています。そこからしばらく谷(兼堀)沿いのフラットな道になり、再び登り始めるとすぐ三ノ丸入口の“吹雪門”があります。
 
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吹雪門遺構


 この辺りから石垣構造が増えてきて、吹雪門も渡り櫓門だった様ですね。 この左側に“大矢倉石垣”という石塁群があり、ここは三ノ丸という位置付けの独立した要塞の様な縄張りで、最上段には半地下の三層の大きな櫓があった様です。 苗木城の大きな見どころです。

 
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本丸から見た“大矢倉石垣” マチュピチュ風に見える
 
 
4.二ノ丸
 三ノ丸と本丸の間は広場になっていて、北側には“搦め手門跡”もあるから、“馬出し”の機能みたいです。
この広場から本丸に入る間に“大門”という大手の渡り櫓門がありました。 この石塁は切り石の亀甲積みになっているから、江戸期の遺構の様です。
 
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 大門を過ぎると、右手に下って行く道があり、一段低くなってる広場がありますが、そこが二ノ丸です。 ここは戦国期に御殿があった場所で、大きな建物の礎石が残っており、“懸造り”が最も多用された場所の様です。
ちょうど的場を持つ御殿の部分の石垣が修復中でした。
ついでに建物も復元されると、嬉しいのですが。

 

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二ノ丸石垣復元現場
 
 
5.本丸
 二ノ丸からは反時計回りの帯曲輪になっていて、螺旋状に本丸に登って行けますが、元の大門の内側に戻って、本丸を目指します。
本丸へは殆ど崖の急な斜面をジグザグに折り返しながら登って行きます。 壁面は自然の巨石と石垣を上手くミックスして造ってあり、地震にも強いであろう強固な壁です。
 大門の内側には“綿倉門”があり、折り返してすぐ“坂下門”登り詰めた所には“菱櫓門”さらに折り返して“本丸口門”、もう一回折り返して“玄関口門”と、五つもの門が構えられています。 門で手こずる敵兵は、その度に折り返しの上段とさらに上の段から狙い撃ちされる…極めて守りの固い構造です。
 
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坂下門から本丸への登城路  自然の岩を上手く活用している 

 

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巨岩と石垣の競演です
 
 
 本丸口門の前は兵を溜められる広場になり、南西を睨む“笠置矢倉”もあります。実質この段が最終の防衛ラインであったと思われます。
この広場から最上段へは二つの道があり、玄関口門から入る表口と、石垣と巨岩の狭い隙間を抜けて行く裏口です。この巨岩を“馬洗岩”と言うそうで、岩の上で馬の背に白米を掛け、遠目に“水が有り余ってる”様に見せたという逸話が書かれていました。 この手の話、水に不安のある城には何処にでも洩れなく有りますね。
 
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 最上段に登ると、そこもまた巨岩がひしめく山頂で、かつては籠城時の建物が何棟もあった様です。 現在は天守があった場所に、天守の一階床面が懸造りで復元されており、展望台になっています。
山頂だけに、ここからの眺めは360°の眺望で、折から新緑のパッチワークがどこまでも続く景色は“壮観”です。
 
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本丸裏の石垣  切り石が積層されており、比較的新しい
   
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 天守の床面をイメージした懸け造りの復元
 
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5.下城
 岩山を守りに使った城は“岩殿山城”や“嵩山城”など、幾つか知っていますが、いづれも戦国期までの籠城の城で、明治維新まで続いた“岩城”というのは初めて見ました。
長い時間現役だっただけに、細部まで発展整備されていて、
それらがすべて間近で触れて見られるのも素晴らしく、まさに“必見の城”です。
 
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本丸裏側にもグルリと螺旋状に遺構は続きます
 
 訪れた日もそこそこ人出がありました。 清掃が行き届き、受入れの設備や対応も素晴らしいので、ジワジワ人気上昇中なのでしょうか。 
それだけにまた不安も頭をよぎります。
 遺跡を観るマナーを知らない雑多な客が殺到して、転落事故や石垣の破壊で本来有るべきでない柵が出来たり、立ち入り禁止エリアが出来ない事を祈るばかりです。
木曽川の河畔だけど、霧は出ないのかな?
 
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天守から見た木曽川の流れ 向こうは中津川市街と恵那山