真田昌幸の足跡を辿るシリーズ 第二回は上州の吾妻郡にやって来ました。

 
 真田郷で幼少期を過ごした昌幸は7歳で信玄の元に出仕し、やがて近習・旗本として信玄の戦いに帯同し、小田原・三増の遠征や遠州・三河の上洛戦などを通じ、侍大将としての器を磨いていきます。
*この辺りの事は現在取材中。
 昌幸が上州に関わるのは、幸隆・信綱の跡を継いで真田家当主になってからで、すでに掌中にあった岩櫃城を拠点に吾妻全域~沼田~箕輪へと勢力を拡げて行きます。
 
 
 
真田昌幸の足跡 第二回
 群馬県  岩櫃城 ①                 登城日 2014.04.12
 
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所在地       群馬県吾妻郡東吾妻町
城郭構造     梯郭式山城
通称      
築城年      15世紀
築城主      斉藤氏
主な改修者    真田幸隆、真田昌幸
主な城主      真田幸隆、真田昌幸
廃城年      1614年(慶長19年)
遺構        曲輪、土塁、空堀
文化財指定    なし
 
 岩櫃城、戦国史では良く聞く名前だと思いますが、城オタで真田昌幸ストーカーにとっては欠かせない、100名城にも国宝にも勝る価値のある貴重な城です。
そんな岩櫃城にやっと、たどり着きました。
 
 
 岩櫃城は岩櫃山の東麓を中心に造られた、幾つかの支城を含めた複合要塞城で、険しい岩山の地の利を活用した巨大な山城であります。
城の成り立ちは鎌倉期に遡り、領主の吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わります。
 
 南北朝の時代になり、山内上杉氏の家臣である秋間斎藤氏の治世に城の骨格が出来上がった様です。
 
 戦国期になり、吾妻郡内の羽尾氏、鎌原氏など“滋野一族”との領地争いが起こると、同族で北信濃を領する真田幸隆が介入して来ます。
 武田の属将として信濃平定に活躍した幸隆は、真田郷に復帰して、この頃は武田家の“信濃先方衆”として上州侵攻を命ぜられていました。
1563年に岩櫃城は落城し、真田氏の吾妻郡支配の拠点になると共に、沼田地方への侵攻の拠点として、幸隆、信綱、昌幸と年月を掛けて拡充・強化されて行くのです。
 
 武田氏滅亡のおり、真田昌幸は容易には挽回できない事態の深刻さを悟り、武田勝頼を一旦岩櫃城に引かせて、再起を図ろうと献策します。
 一旦はそれに同意した勝頼ですが、昌幸が迎える準備の為に帰城した直後に事態は急変します。
 なぜか岩殿山城に向かった勝頼は、城主で叔父の小山田信茂の裏切りに遭い、自刃してしまいます。
 
 真田氏は上杉~豊臣と取り入って巧みに生き残り、徳川の世となっても岩櫃城は沼田城主の真田信之の持ち城でしたが、1614年の一国一城令により廃城となります。
 
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吾妻路は春爛漫!  気持ちの良いドライブです 
 
 
岩櫃城を歩く
1.アプローチ

 関越道の渋川伊香保ICを降り、R353(長野街道)を走ります。 
一帯は榛名山北麓の谷で、風光明媚な土地の上、ちょうど桜が満開で、小学唱歌『さくらさくら』に出て来そうな長閑な田舎の風景が広がります。
 渋川からは“吾妻線”というローカル路線もあり、鉄道の旅も良さそうです。
そんな道を30分ほどゆっくり走り、仲之条の町を過ぎると、岩櫃山の異様な山塊が前方に見えて来ます。
 
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周囲は“八ツ場ダム”の工事現場 これが堰堤になるのかな? 
 
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近くにある支城で奇城の“丸岩城”
 
 
 国道から岩櫃城跡への入口はとても難しく、手前の“原町”で右手の旧道に入り、吾妻峡温泉“コニファーいわびつ”を目指します。
 …というのも、岩櫃城自体が何の史跡にも指定されていないので、看板自体が殆ど無いのです。
 ホテルの看板に従って渓谷沿いを登って行くと、早くもそこかしこにソレらしき城址の防御地形が現れて来ます。

 

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駐車場と案内所
向こうの高台が“天狗丸”
 
 途中に分岐があり、今度はホテルの方ではなく、“岩櫃山登山口”を目指します。 
ほどなく、右手に登山者用の駐車場があり、そこを借用してクルマを停めましたが、満杯でした。
 
 登山口の脇にプレハブの案内所があり、無人ですが、休憩の椅子とテーブル、無料パンフが置いてもらってあり、等高線のある城の全体地図が大きく掲示してあります。
 ここまでは岩櫃城は蚊帳の外で、心細く感じましたが、この案内所は“城の為にある”様で、最後は期待を裏切らない対応に感謝です。
 
しかし…とてつもない広大な城です(汗)
 
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これがすべて城域で、遺構がたくさん在るらしい
  
 
2.本丸へ
 今回の対象を主郭部限定と決め、登山道から登り始めます。
この道自体が竪堀の様で、雑草に覆われ判然としないものの、両側に郭塁らしき跡が段々に連なります。
 すぐに分岐があり、本丸へは左に折れて急な登りになります。 
この辺りからは杉林の中を進み、見通しが効かないものの、下草の波打ち具合から相変わらず郭塁が段々状に重なっている様子が、おぼろげに判ります。
 
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林間に残る郭塁の跡
 
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 道は傾斜を増して来ました
 
つづく