真田昌幸の足跡 第一回
     長野県  内小屋城・信綱寺         登城日 2013.11.12
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 所在地      長野県上田市真田町横尾
 城郭構造     丘城・城館
 通称      
 築城年     1550年頃
 築城主     真田幸隆
 主な改修者  
 主な城主     真田氏
 廃城年      真田氏館築城時か?
 遺構        曲輪、土塁ほか
 文化財指定
    
 
 
   次には内小屋城・信綱寺を訪ねます。
この城は城館と簡易の砦…的な機能の城ですが、一時期ここが真田の本拠地であったと思われるからです。
その理由も…『なんとなく』ではありますすが(^^;
 
 
1.内小屋居館の裏付け
 1551年、武田の臣:真田幸隆は砥石城の攻略・奪還に成功します。
その際に内小屋城の西隣にあった横尾城を攻め、村上氏の家臣:横尾氏を敗走させた記録があるそうです。
 内小屋城の築城はこの直後と言われ、城と同時に居館が築かれました。 それが現在の信綱寺の場所の様なのです。
 
 信綱寺と内小屋城の地理関係を見てみると、内小屋城は真田郷の北の端、山塊が迫る麓に横たわる低く細長い丘陵に築かれています。 
その北側には洗馬川に注ぐ細い清流が流れ、ちいさな平地を造っています。 そこに信綱寺はあり、往来のある南側から見ると、内小屋城の丘が奥の山塊に溶け込んで、スッポリ隠れてしまう場所なのです。
 つまり、村上勢を追っ払った幸隆は、反撃も予想して、当面の居館を絶妙な地に建て、警護の砦を前の丘に構築したと言う事ですね。
 
信綱寺とは…、後に昌幸が、尊敬する兄の信綱と昌輝の菩提を弔うために建立したものです。
 その頃の真田氏の居城はもう上田城ですから、昌幸の心情として、幼い頃に共に過ごした楽しい思い出のある内小屋の地に寺を建立した…というストーリーはごく自然に感じます。
*異論たくさんあり
物心ついた昌幸が見た真田の“原風景”は此処なのですw
 
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信綱寺山門
 
 
 ここで真田信綱と昌輝について触れておきますね。
 
2.真田信綱とは
 昌幸の10歳違いの兄で、幸隆から真田家の家督を継いだ嫡男です。 
特に武勇に優れ、武田家の武大将として殆どの戦いに参加し、常に先鋒を務めたと言われます。
 その働きを信玄に愛され、武田二十四将の一人に数えられます。
若い頃から父:幸隆の傍にいて戦術を学び、跡目を継いでからは信濃衆の大将をする名将でした。
 跡継ぎの成長に安心して幸隆が亡くなった翌年、“設楽ヶ原の戦い”で、織田軍と交戦中に銃弾を受けて討死にしました。
人物像はなんとなく甥の信之にイメージが重なります。
 
3.真田昌輝とは
 昌幸の2歳違いの兄で、次男でした。 
昌輝は怜悧な性格で、信玄の近習から若くしてエリート組の『百足衆』に進み、敵情や戦局の偵察で適切な進言ができたので、信玄から『兵部は我が両眼なり』と感嘆されたそうです。
 侍大将になると信綱の副将を務めて活躍し、真田家の分家を創設しますが、信綱と同じく、“設楽ヶ原の戦い”で佐久間信盛隊に突入し、討死にしました。
 武田二十四将の一人に数えられます。
 
 
 この様に、外様ながら父:幸隆、弟:昌幸と共に、武田二十四将のうち四人を占め前途洋々の真田家も柱を相次いで失い、主要な家臣も多く失って真田郷は悲しみの淵に沈みます。
 この時昌幸は“武藤喜兵衛尉”を名乗り、武田の支族の家を継いでいました。 
昌幸も武田勝頼の旗本として参戦しましたが、無事に帰還しています。
この時から“稀代の名将:真田昌幸”の苦難の道が始まります。
 
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内小屋城跡
 
 
4.内小屋城
 大した城址ではないのは判っていますが、せっかく行ったので少し歩いて見ます。
信綱寺入口の公園駐車場にクルマを停めます。
 実は信綱寺周辺は“真田公園”になっていて、道路に沿って屋敷風の建物や庭園が造られています。
 この公園に陰を作っている目の前の丘がもう内小屋城跡で、小川の橋を渡って登って行きます。
 
 城といっても、丘自体にあまり手は加えられておらず、南北に長い頂上部を何段かに削平しているくらいです。
 幅もいちばん広い所で10m程度で、北端は堀切で処理してありますが、道路も通っているので、近年の切通しかもしれません。
 南端近くには信綱寺の山門が建ち、それが唯一の建造物ですが、南の平地を回り込まずに、わざわざ丘を越えて詣でる様にしたのは何でしょうね?
 
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 山上に残る古い石仏

 
 
5.信綱寺(しんこうじ)
 次は信綱・昌輝の墓参のため、信綱寺に向かいます。 
この寺、山門や本堂の伽藍は歴史ある立派な佇まいなのですが、長谷寺と違い、綺麗な公園墓地を持ち、墓参の為の人が絶えない“現代に生きる寺”です。
 その為か、信綱・昌輝の墓所の看板は有るのですが、墓への案内は一切ありません。 
歴史オタが落とすお布施は五円玉6枚ですから、仕方ない事かも知れませんが、こうして急速に忘れられて行くのか…と思えば、寂しい限りです。
 
 寺の人も見当たらず、仕方ないので、古い墓石が集まるエリアを探して見ます。
長谷寺で見た昌幸の墓石の形が目印です。
しばらく探しましたが見つからず、残念ながら断念して砥石城に向かいます。
 
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落ち葉に埋もれた真田公園の池  秋も終わりです