高取城の続き…
二ノ門から北曲輪に入って行きます。
冠木門から左折れで若干の枡形空間があり、奥は石塁で囲まれてるから、渡り櫓門だったかも知れません。
そこからは左右に低い石垣の削平地が段々に続いている様ですが、何分にも樹木と下草が生い茂り、朽ちた倒木が放置された状態では、地形の輪郭がよく判りません。
冠木門から左折れで若干の枡形空間があり、奥は石塁で囲まれてるから、渡り櫓門だったかも知れません。
そこからは左右に低い石垣の削平地が段々に続いている様ですが、何分にも樹木と下草が生い茂り、朽ちた倒木が放置された状態では、地形の輪郭がよく判りません。
しかし、山の斜面か土塁と思える箇所が、よく見ると悉くが草に覆われた石垣です。
これは…一度きれいに清掃した姿を見てみたいものです。

遠目には山の斜面ですが、
近付いてみると、これみんな石垣です
しばらく行くと、“国見櫓跡→”の看板があるので行って見ます。
敵の動きが見える所に築くのが山城ですから物見の機能は必須で、確かに国見櫓からは大和盆地と眼下の街道が丸見えです。
空気の澄んだ日には大阪や京都も見えるそうで、これはこの城の戦略的価値に大きなポイントとなります。

国見櫓からの眺望
大和盆地はおろか、京都、大坂も見渡せた
大手道に戻ってさらに行くと、目の前に高い石垣の壁が立ちはだかります。
よく見ると両側にも郭の石垣が取り囲んだ広場の様な場所です。
何やら重要な場所に見えるのですが、正面の石壁のくぼみの奥に門があり(松ノ門)、ここが北曲輪との境目です。
ここからは石垣のレベルも上がります。
ここからは石垣のレベルも上がります。

大手門跡
ここからが公園管理地なのか、石垣も清掃されてキレイになる
4.南曲輪
松ノ門は石垣に囲まれた、人が二人並べる程度の狭隘な道を登って潜る門で、この規模の城にしては極めて小さな門です。
松ノ門は石垣に囲まれた、人が二人並べる程度の狭隘な道を登って潜る門で、この規模の城にしては極めて小さな門です。
守りに徹したこの城のポリシーを感じる遺構ですが、門そのものは明治初期に解体移設され、城下の児童公園の門として復活しています。
北曲輪に入り、石垣の間を縫う様に宇陀門、千早門と抜けて行きますが、北曲輪も草木の整備は十分でなく、各郭を細かく見るには装備不足です。
しかし“大手門”に着くと様相は変わってきて、石垣の草も少なくなり、平地で見る“城跡”らしくなって来ました。
しかし“大手門”に着くと様相は変わってきて、石垣の草も少なくなり、平地で見る“城跡”らしくなって来ました。
それを敏感に感じてか、ここで記念撮影するグループも居ました。
大手門を入ると“二ノ丸”になり、二ノ丸御殿があった場所ですが、今は広い芝生の広場です。
本丸の東には“十五間多門”の大きな石垣があり、近年に積み直し整備された模様で、草木も苔も無い野面積みのキレイな石垣です。
その後方に本丸の高石垣が見えます。
本丸の東には“十五間多門”の大きな石垣があり、近年に積み直し整備された模様で、草木も苔も無い野面積みのキレイな石垣です。
その後方に本丸の高石垣が見えます。

本丸天守台石垣
5.本丸
高取城の本丸は天守に小天守、二基の櫓と櫓門が多門で連結された“連立式天守”で、高さ8mの石垣の基壇に立っており、周囲を帯曲輪が取巻いています。
十五間多門から見る天守台は石粒も大きく、打ち込み接ぎながら角石は加工石でキレイに算木積みされています。
反りはまったく無くて、見るからに“藤堂高虎の石垣”です。
高取城の本丸は天守に小天守、二基の櫓と櫓門が多門で連結された“連立式天守”で、高さ8mの石垣の基壇に立っており、周囲を帯曲輪が取巻いています。
十五間多門から見る天守台は石粒も大きく、打ち込み接ぎながら角石は加工石でキレイに算木積みされています。
反りはまったく無くて、見るからに“藤堂高虎の石垣”です。
高虎は浅井家滅亡後は浪人していたものの、秀長のもとに仕官し、中井正清、小堀遠州らと築城のチームを作っていたので、高取城の築城に与力した可能性は高いと思われます。
天守台に登ってみます。
天守台に登ってみます。

天守のスペックは“三重三階地下一階”となっています。
もともと山城に高層天守は不要だし、この城には22基の櫓のうち17もの三層櫓があったと言われますから、要所に多数の銃眼を確保する事の方が優先だったのでしょうね。
6.総括
高取城をつぶさに見て、あとは下城するだけですが、ここで冒頭の豊臣秀長が財力を惜しまず投入して築いた“戦略的価値の高い城”について総括してみます。
高取城をつぶさに見て、あとは下城するだけですが、ここで冒頭の豊臣秀長が財力を惜しまず投入して築いた“戦略的価値の高い城”について総括してみます。
◆まず時代背景ですが…
・朝鮮出兵期であり、明国、朝鮮の逆襲も考慮を要する
・朝鮮出兵で疲弊する大名からの求心力低下の懸念
・国内にも徳川家康という潜在脅威が消えていない
・それらに対する兄の太閤秀吉の危機意識が欠如し、判断力
も鈍り始めている
・朝鮮出兵期であり、明国、朝鮮の逆襲も考慮を要する
・朝鮮出兵で疲弊する大名からの求心力低下の懸念
・国内にも徳川家康という潜在脅威が消えていない
・それらに対する兄の太閤秀吉の危機意識が欠如し、判断力
も鈍り始めている
◆次に今後も豊臣政権を維持する為の必然的な対応策は…
・皇室、皇族、公家衆の安全な保護(権力の正当性を維持するには天皇の信
・皇室、皇族、公家衆の安全な保護(権力の正当性を維持するには天皇の信
認が必須)
・豊臣秀頼と一族の安全な保護
・劣勢な状態での退避ルートの確保と再起の為の避難先
・豊臣秀頼と一族の安全な保護
・劣勢な状態での退避ルートの確保と再起の為の避難先
◆最後に上記を充たす為の地理的条件からの段階的措置
1.外敵襲来や内乱発生時は大和郡山城に集結
2.敵が畿内に迫る状況なら“高取城”に籠城
3.段階的に天皇、秀頼を捜索困難な紀伊山中に隠す
4.自領内の紀州沿岸より船で脱出
5.逃亡先で勢力を結集、再起を図る
1.外敵襲来や内乱発生時は大和郡山城に集結
2.敵が畿内に迫る状況なら“高取城”に籠城
3.段階的に天皇、秀頼を捜索困難な紀伊山中に隠す
4.自領内の紀州沿岸より船で脱出
5.逃亡先で勢力を結集、再起を図る
これらはあくまでも“仮説”で、立証できてない事が多々ありますが、緊急時に備えて大和郡山城の八畳間に一杯の銀を蓄えていた秀長の性格からして、ボケ始めた兄に替わり、こうした事を考え、準備していた事は想像できます。
そうでも無ければ、険しい山の上に万余の兵が籠って長期間戦える城の必然性は、他に“道楽”以外に考えられず、現実的ではありません。
面白い事に、これを実証してくれたのが“超吝嗇家”の徳川家康で、自ら一国一城令を出しながらも、高取城は廃城どころか、逆に“管理人大名”を置いて、1万石の加増までして、“修復勝手”のお墨付きまで与えてシッカリ管理させました。
極め付けは退避ルートの紀伊山地及び海沿地域には自らの十男頼宣を大封をもって封じています。
何をかいわんや…です。
何をかいわんや…です。
7.下城
“総括”はあくまでもフィクションですが、とにかくこんな規模の山城は他に類がなく、岩村、備中松山、竹田、津和野、岡も及びません。
“総括”はあくまでもフィクションですが、とにかくこんな規模の山城は他に類がなく、岩村、備中松山、竹田、津和野、岡も及びません。
たぶん掛かった費用も桁違いでしょうね。

近年、全貌がCGで再現されていますが、すべての郭に足を踏み入れ、この眼で見たい願望はつのります。
せめて下草などの整備は出来ないものでしょうかね? 日本一なんですから。
せめて下草などの整備は出来ないものでしょうかね? 日本一なんですから。

城の守り神“猿石”
麓の古墳の副葬品と言われます