日本100名城  №38  岩村城                 登城日 2014.4.26
 
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所在地       岐阜県恵那市岩村町字城山
城郭構造     梯郭式山城
通称        霧ヶ城
築城年      1221年(承久3年) 鎌倉時代
築城主      遠山景朝
主な改修者    河尻秀隆、各務元正
主な城主      遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
廃城年       1871年(明治4年年)
遺構         石垣、郭、移築門
文化財指定    県指定史跡
 
 
 美濃で最初の100名城、岩村城にやって来ました。
遠山氏の居城で、“女城主の城”として有名ですが、これは岩村遠山氏最後の領主の遠山景任に嫁した“おつやの方”の事で、織田信長の叔母と言われています。
 
 景任が無嗣で病没した為、遠山氏には信長の五男の“坊丸”が養子に入り、後継となります。
しかし坊丸は幼少であった為、実際の城主としての差配はおつやの方が行なっていた事から“女城主伝説”として語られています。
 
 これには後日談があり、武田の秋山信友が岩村城を攻めた時、織田の援軍を待つ遠山勢は、おつやの方の指揮でよく防戦し、なかなか落ちません。 困り果てた信友が採った策はなんとプロポーズ!、“後家のおつやの方を自分が娶る”条件での無血開城でした。
 援軍の無い遠山勢はそれに従う決断をして開城しますが、その時には織田信忠の援軍が近くまで来ていたそうです。
 間の悪い事ですが、これは信長の怒りを買ってしまい、信友とおつやの方は捕えられて、逆さ磔で処刑されてしまいます。 
 
 遠山氏の絶えた岩村城には、川尻秀隆、団忠正、森忠政が相次いで入ります。 森氏の時の大改修で現在残る遺構がほぼ出来上がります。
江戸期になると、大給松平氏が城主となり、一度丹羽氏が入るものの、また大給松平氏が復帰して明治維新を迎えます。
 
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御殿跡の復元建物群 城内より
  
 
 
岩村城を歩く
1.アプローチ

 苗木城からの移動はまずR9に戻って、恵那方面に南下して、恵那市街でR257を左折して15分ほどで恵那市岩村町の市街に入ります。
 岩村は東美濃を代表する歴史のある城下町で、中山道大井宿(恵那市)から分岐した岩村街道の終着地でもあります。 その為か、城下の旧街道沿い(本通り)は宿場町の風情を色濃く遺し、“重要伝統的建造物群保存地区”にも指定されています。
 
 時間があれば城下散策も楽しそうですが、今回は城を目指します。 岩村城攻めの拠点となるのは“岩村歴史資料館”で、街並みの東のはずれ近くに進入の看板があります。
旧街道はクルマも走れますが、道が狭く観光客も多いので、なるべく避けたい所です。
 
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御殿跡から見下ろす岩村城下
 
2.岩村歴史資料館
 資料館は坂を少し登った高台にあり、江戸時代の御殿の跡に建てられている様です。 道沿いの右手に正門と多門櫓、鼓楼が復元されており、それらを回り込む様に右折すると広い駐車場(広場)があり、奥に資料館の建物があります。
 入場料\300ですが、岩村藩の治政・文化に関する展示が主な内容で、武具・甲冑の類は少な目でした。
パンフも資料館を紹介するものだけで、岩村城散策に有用な縄張り図などの資料は残念ながら有りませんでした。
 
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登城路は石畳 100mおきに里程標もある
  
 
3.登城路
 登城の道の選択肢は2つあり、まず資料館から大手道を徒歩で本丸を目指す“王道”と、一旦クルマで国道に戻り、東進して本丸の裏手のある駐車場まで乗り入れる“邪道”の二つですが、ここは選択の余地はありません。
 駐車場入口に戻り、右手にそのまま坂を登って行くと“大手道”、
道沿いには本丸までの残距離を示した“道標”が設置されてて、目標になります。
 道は石畳が敷かれた幅3mほどの緩い登りで、たぶん荷車を牛に曳かせて物資運搬してたのでしょうね。
 
 残り“四百米”辺りから郭の痕跡が現れ出して、古い石垣も現れて来ました。 
家臣の屋敷跡かと想像をめぐらすうちに、“一ノ門跡”の看板があり、山上部分の入口に着いたのが判ります。
 ここからは登りも急になり、折り返しながら登って行きますが、石垣の高さも増して行きます。
初めての枡形になった“土岐門跡”を折り返して、しばらく登ると前方に大きな石塁群が見えてきました。
 
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 石塁は“追手三重櫓”の櫓台とそれに付随する“追手門跡”
 
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こうゆう形だった  橋の途中に門がある
 
 
 
4.追手門周辺
  石塁は追手門のものでした。 ここからがいよいよ主郭部になる訳で、厳重な構えの遺構が顔を覗かせます。
 追手門の造りはかなり特殊なもので、門の手前が空堀になっており、木橋で渡る様になっていますが、橋は追手三重櫓の石垣に向けて架けられ、橋の途中から階段で門に入って行く構造です。
 いざという時、橋を落とせば守備力は上がりますが、撃って出るのも困難になるので、戦略的構造ではないですね。
 
 追手三重櫓はこの城唯一の三重櫓で、当時は天守の扱いだった様です。 入口に天守とは、外様小藩は苦労しますね。
 追手門を過ぎると道は緩斜面になり、両側に広い削平地と石垣が続きます。 重臣屋敷のエリアなのかな。
“霧ヶ井”という、秘蔵の蛇骨を投げ入れると霧が立ち上って、敵から城を隠したという伝承の井戸もここにあります。
 
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5.本丸
 ここを登り切るとほぼフラットな道になり、二ノ丸の“菱櫓跡”の石垣を右手に見ながら、本丸の石塁群を目指します。
本丸は二段構造になっていて、西側の上段に天守相当の曲輪があり、東側の下段には長局などの生活の曲輪が造られていました。
有名な“六段石垣”はこの長局の石垣です。
 
 天守の曲輪に登ると結構な広さの広場になっています。遠山の時代から天守閣は無く、西側の南北の二層の櫓が二棟と、南北に多門櫓が二棟あった様です。
 他の建物は発掘調査でも確認されておらず、享保期の絵図にも描かれていません。
 
 戦国期に“主殿”的な建物があったとすれば、たぶん二ノ丸なんでしょうが、すでに杉林と化して、下草や雑木の処理もなく放置されているので、知る術もありません。
 
 本丸上から見下ろす南側に“出丸”があり、多門風の建造物があります。 行って見れば鉄筋コンクリート造りの休憩所で、近年に訪問者の便を考えて造られたモノの様です。
何もない山上で急な雨や雷を避けるには必要なモノだから、良いけども、それなりの造りにして欲しいものです。それにトイレが故障中で使えないのも早急な対処が必要です。
 
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本丸石垣
 
 
6.下城
 山上の本丸は本来なら360°の展望が効く、物見機能にも優れた城である筈ですが、岩村城の場合、西側は拓けているものの、肝心の北側(街道側)を含め他方向は森林に覆われて、まったく眺望が効きません。
 百名城の山城の代表の様に言われる城ですから、そうした環境の復元には是非取り組んで貰いたいものです。
 
 登ってきた道を遺構を再確認しながら降りて行きます。
本丸を中心とした“主郭部分”と山裾に続く武家屋敷群の“打ち捨てられた遺構”の落差に驚き以上に哀しさを覚えます。
この城、石垣も野面積みの古いものばかりだし、石粒も小さいのが特徴だと言えます。 
つまり、戦国の遠山氏が戦いの合間に急いで造ったものをそのまま維持してる…という事で、江戸期には日常の場は麓の居館に移り、山上の要塞にまで手を加える余裕がほとんど無かったのではないんでしょうか。
 
 日本三大山城と呼ばれるのは、専門家や愛好家の眼に映る潜在能力の姿であって、我々素人の眼には“廃墟”にしか見えません。
同族の苗木城が、天然の嶮を利して人智を結集した山城の凄さを体感できる整備を実現してるのに比べ、規模と百名城の名に依存してる様に思えてなりません。