日本100名城  №31  新発田城          登城日 2013.11.10
 
イメージ 1
 
 所在地     新潟県新発田市大手町6
 通称          菖蒲(あやめ)城・舟形城
 城郭構造    平城
 築城年     ?
 築城主      新発田氏
 主な改修者  溝口秀勝
 主な城主    溝口氏
 廃城年      1873年(明治6年)
 遺構        櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
 文化財指定  国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)
 
 
 米沢からはローカルの米坂線に乗って、“松川の牛肉弁当”を食べながら新潟の新発田に向かいます。
 途中の坂町で羽越本線に乗り換えですが、この“本線”は2時間に1本の過疎ぶりで、坂町では1時間以上待ちました。
ローカル線の旅は、時間待ちは付きものですが、さすがに雨が降ってると…暇ですねw

 
 新発田城は越後に古くから地盤を持つ新発田氏の居城であり、戦国末期の新発田氏は上杉氏の配下でしたが、処遇をめぐる対立から滅ぼされてしまいます。
 その後、上杉氏の会津移封でポッカリ空いた越後には様々な大名が入りますが、新発田の地に来たのは堀秀政の与力大名:溝口秀勝で、6万石で入封します。
 以降、一度も移る事なく、明治までこの地を支配しました。 
こうした安定基盤のもと、溝口氏は新発田氏の居城跡に新たな居城の築城を始め、二重の水堀を持つ総石垣の近代城郭は60年以上の歳月を掛けて完成されました。
 現在は本丸と二ノ丸のほとんどが残っていて、自衛隊と歴史公園が共存する珍しい城です。
 
 
新発田城を歩く
1.アプローチ

 新発田駅に着いても雨脚は衰えず、おまけに暗く、寒くなってきました。 最悪のコンディションですが、ここまで来たら登城します。
タクシーで大手門前まで行き、1時間後の迎えを頼んで脚を確保してから登城です。

 

 
2.登城
 新発田城は本丸の大半と、本丸北側の二ノ丸を自衛隊に占領されていて、見られるのは本丸南側の大手門と2基の櫓のみです。
 二ノ丸も本丸南側は公園として確保されていて、その間の水堀も残されており、切り込み接ぎのキレイな城壁を見る事ができます。
 また、本丸の自衛隊占領地に、この城の天守となる“三階櫓”が復元されていて、優美な外観が見れます。
 
イメージ 2
大手門内 
 
 
 大手門ですでに4時過ぎ、受付に行くと一応職員は居ましたw 
こんな日に来るのは越後では常識外なのか、終始不思議そうに対応してくれますw
もちろん貸切で、時間の範囲でホントに自由に廻ります。
 まず“大手中ノ門脇櫓” ここは中が見れて何やら展示してますが、入り口から見る限り、う~ん。
 
イメージ 3
大手中ノ門脇櫓
 
 
 外に出ると、なんと、前には一面に軍用車両が並んでいます。
櫓台からだとフェンス越しに見えるのですね。ミリオタにはお奨めですが、国防機密につき写真は撮りませんw
“西櫓”は外観のみの見学、どちらも重文なのですが、もう暗くてよく判りません。
 
イメージ 4
西櫓
 
 大手門を出て、堀端を歩いて公園に向かいます。 
目当ては復元の“三階櫓”で、T字型の切妻屋根を持ち、てっぺんに三匹の鯱が乗ってるのが特徴です。
 堀越しに見える櫓はどの角度から見てもバランス良く優美で、日本有数のキレイな櫓です。
一層目の海鼠壁がアクセントになってますね。
 
イメージ 7
復元:三階櫓  綺麗な櫓です
 
 
3.下城
 約束の刻限が近付いてきたので、大手門前の東屋に移動してタクシーを待ちます。イメージ 5
目の前に“堀部安兵衛”の銅像があります。
赤穂浪士の一人ですが、父が元新発田藩士で、この地で生まれた様です。
 
 城址を売り出し、名を上げる為には有名人も必要で、各自治体もご苦労な事ですが、徳川初期を外様の小藩が改易も転封も除封もなく生き抜いたのは凄い事で、それには正当な理由がある筈です。
 
 実は私も溝口家については知識がなく、新発田城も“譜代の城”では?という認識でした。
 あとで調べたら、溝口氏は甲斐源氏(武田氏)の支族で、丹羽長秀や堀秀政の属将を長く務め、明智や柴田、ひいては関ケ原や大坂の陣の浪人から積極的に人材を求めて、家臣団を作って行った家の様です。
 藩主に派手な活躍はなくても、家臣団の質は高かったという事でしょうね。
ホンモノ志向の時代、そういったヒーローが居ても良いと思います。
 
イメージ 6
日が暮れて、大手門も閉まりました
 
 
 タクシーがきました。
この後は新潟に移動して、名物の美味しいモノ食べて、最終の新幹線で帰宅します。