東北の城探訪 山形 米沢城 登城日 2013.11.10

所在地 山形県米沢市丸の内形市霞城町
城郭構造 輪郭式平城
通称 舞鶴城、松ヶ岬城
築城年 1238年(暦仁元年) 鎌倉時代
築城主 長井時広
主な改修者 伊達晴宗、蒲生郷安、上杉景勝
主な城主 長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 土塁、堀
文化財指定 なし
城郭構造 輪郭式平城
通称 舞鶴城、松ヶ岬城
築城年 1238年(暦仁元年) 鎌倉時代
築城主 長井時広
主な改修者 伊達晴宗、蒲生郷安、上杉景勝
主な城主 長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 土塁、堀
文化財指定 なし
山形からの新幹線移動です。
雨に煙る車窓に上山城や長谷堂城の姿を探しながら、いつしか米沢に着きました。
ここだけの話、今回一番楽しみにしてたのがこの城です。
米沢城は実は戦国後期まで伊達氏の持ち城で、それは室町初期に遡る歴史のあるものでした。
雨に煙る車窓に上山城や長谷堂城の姿を探しながら、いつしか米沢に着きました。
ここだけの話、今回一番楽しみにしてたのがこの城です。
米沢城は実は戦国後期まで伊達氏の持ち城で、それは室町初期に遡る歴史のあるものでした。
1548年からは居城となって、政宗もここで生まれます。
1589年、政宗が蘆名氏を滅ぼして、居城を黒川城(後の会津若松城)に移すまで伊達の本拠地でした。
秀吉の奥州仕置きで、政宗はこの墳墓の地を取り上げられ、岩出山に追いやられます。
変わって入って来たのは蒲生氏郷で、支城の米沢は重臣の蒲生郷安が入ります。
1589年、政宗が蘆名氏を滅ぼして、居城を黒川城(後の会津若松城)に移すまで伊達の本拠地でした。
秀吉の奥州仕置きで、政宗はこの墳墓の地を取り上げられ、岩出山に追いやられます。
変わって入って来たのは蒲生氏郷で、支城の米沢は重臣の蒲生郷安が入ります。
蒲生氏が宇都宮に去った後は越後から上杉景勝が入り、米沢城には腹心の直江兼続を入れます。
上杉氏は関ヶ原の折に西軍の首謀者だった事から、会津120万石から米沢30万石に大減封されてしまいます。
上杉氏は関ヶ原の折に西軍の首謀者だった事から、会津120万石から米沢30万石に大減封されてしまいます。
その後、15万石への減封にも耐えて、米沢城は上杉氏の城として維新まで続いて行きます。
現在は江戸時代の遺構などは一切無く、稀代の英雄で家祖となる謙信を祀る上杉神社が建っています。
現在は江戸時代の遺構などは一切無く、稀代の英雄で家祖となる謙信を祀る上杉神社が建っています。

城内には謙信の遺体を安置した霊廟があった。
米沢城を歩く
1.アプローチ
米沢に降り立った頃は雨は本降りになっていました。
米沢という場所、山間の辺鄙な土地の様に思っていましたが、山には囲まれているものの、肥沃な平地が広がって、会津盆地とそう変わらない感じですね。
駅から城までは2kmの道のりなので、迷わずタクシーを使用。
1.アプローチ
米沢に降り立った頃は雨は本降りになっていました。
米沢という場所、山間の辺鄙な土地の様に思っていましたが、山には囲まれているものの、肥沃な平地が広がって、会津盆地とそう変わらない感じですね。
駅から城までは2kmの道のりなので、迷わずタクシーを使用。
低い家並みは落ち着いた佇まいで、城下町である事がよく判ります。
ここも“小京都”のひとつなのかな?
ほどなく城の前の“上杉城史苑”に着きました。
ほどなく城の前の“上杉城史苑”に着きました。

旧御殿の上杉伯爵邸
2.上杉神社
米沢城は『上杉神社』になっています。
米沢城は『上杉神社』になっています。
この城址を戦う城と認識して来たら、たぶんガッカリする事の方が多いのでしょうね。
水堀には囲まれてるものの土塁は低く、戦国前期を思わせる構えで、変哲のない城の部類に入ります。
関ケ原で西軍になり、降伏した主犯格大名の城ですから、そう強固な城には出来ないでしょうね。
関ケ原で西軍になり、降伏した主犯格大名の城ですから、そう強固な城には出来ないでしょうね。

大手口 毘と龍がお出迎え
それよりもここは上杉家の終の城です。
つまり、戦国最強の上杉軍団の遺産は、春日山から会津を経由して、この米沢に集まっている筈です。
上杉を知る上で欠かせないのが米沢城なのです。
3.宝物殿
その遺品を集めたのが、宝物殿です。
その遺品を集めたのが、宝物殿です。
謙信が崇めた“毘沙門天像画”、着用した甲冑に頭巾、佩刀。 “毘”と“龍”の旗印も景勝の甲冑も、あの兼続の“愛”の兜も、ここですべてホンモノに出会う事ができます。

上杉博物館
狩野永徳の“国宝:洛中洛外図屏風”はここにあります
4.下城
宝物殿をしっかり見過ぎて、中途半端な時間になってしまいました。
宝物殿をしっかり見過ぎて、中途半端な時間になってしまいました。
ほんとは隣接する“上杉博物館”で狩野永徳の“国宝:洛中洛外図屏風”を見たかったのですが…。
ともかく、米沢にはまた来ないと見れなかったものが多すぎます。
参道に江戸時代の三名君のひとり、上杉鷹山の銅像がありました。
参道に江戸時代の三名君のひとり、上杉鷹山の銅像がありました。
確かに江戸期の上杉家は減封が続き、120万石の家臣団を15万石で養うという殆ど不可能な内政の厳しさがあって、鷹山の改革に負う所は大きくて、謙信と並ぶ“大恩人”なのでしょうね。
次回は城下も廻って、じっくりそんな所も見たいと思います。

上杉鷹山の像と名文句 誠に…、仰せの通りです。