日本100名城  №10  山形城             登城日 2013.11.10
 
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 所在地      山形県山形市霞城町
 城郭構造    輪郭式平城
 通称        霞城、霞ヶ城、吉字城
 築城年      1356年(正平11年) 室町時代
 築城主      斯波兼頼
 主な改修者  最上義光、鳥居忠政
 主な城主    最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏
 廃城年      1871年(明治4年)
 遺構        石垣、堀、移築門、移築御殿
 文化財指定  国の史跡
 
 
   芋煮を肴に美味しい地酒で過ごした夜はあっという間に明け、始発列車で山形市に向かいます。

 山形城は最上義光の城ですが、南北朝の頃には羽州探題:斯波氏がもう城を築いていました。 
 戦国時代になると斯波氏は最上氏と名を替え、隣国の伊達氏などとも上手く付き合って、山形の地を根拠に戦国大名の地歩を固めます。
 関ケ原で家康についた最上義光は57万石に加増(実高100万石?)され、大大名として君臨します。
 
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最上義光の勢いを感じる長大な内堀と土塁
  
 
 義光の整備した山形城は広大なもので、城下をすっぽり包む“惣構えの城”でしたが、義光死後は内紛が絶えず、ついに改易されます。
 変わって入ったのは鳥居家20万石で、近隣外様の抑えの密命を帯びていた鳥居忠政は、山形城の強化を盛んに行ないました。
今も残る城門あたりの石積み遺構は、この時のものと思われます。 
 
 その後に来たのは保科正之20万石で、以後は10万石→6万石と石高が下がり、巨城の維持費が藩財政に重くのしかかります。
 最後の水野氏5万石の時には、本丸はすでに放棄され、二ノ丸に質素な御殿が建ち、三ノ丸は殆ど畑地だったと言われます。
 
 現在、二ノ丸より内側が公園として残り、東門の復元や本丸の復元が進んでいます。 
城内にあるスポーツ施設の移転も決まり、城の姿を取り戻しつつあります。
 
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山形に着く前、遠くに山寺です 
 
 
 
山形城を歩く
1.アプローチ

 仙山線のローカル列車に揺られ、沿線の渓谷美や遠くに“山寺”の景観を眺めながら、山形に着きました。 
盆地の朝は冷えますが、城を目指して歩きます。
 雨の予報が心配な二日目です。
駅から城へは、西口に出て線路沿いを北に進み、堀端に出たら西へ折れて、南門(石塁のみ)から入ります。
 
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復元工事が進む本丸跡
 
2.二ノ丸散策
 城門前に『霞城公園』とありました。 
別名ですが、どっかで聞いたイヤな響きですw
堀は城門付近は石垣で固められてるものの、基本は土塁+水堀の構造ですね。 
カモの出勤も始まってました。
 
 輪郭式の平城で、二ノ丸以内がこの規模ですから、駿府城規模の結構な城です。
城内には体育館や野球場などの施設があり、その利用者が城内に居る大半…という感じですが、これらはやがて移転され、本丸が復元されるそうです。
 体育館の角を曲がると、一部堀を掘り戻して、城門を建ててる現場が現れました。
 
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雨宿りに寄った郷土資料館と 山形といえば“べに花”
 
  ここで俄かに雨が降って来ます。
かなり本降りなので、近くの“郷土資料館”に入って雨宿り。
 これは明治時代の洋館建ての病院で、医療に関する展示館です。 
しばらく待っても雨は止みそうにないので、次に向かいます。
 
 復元の西門。 
大きく立派な枡形門ですが、こういうのは難しいですね。
新築でも少し古く見せる仕上げにしないと、映画のセットみたいです。
おまけに城門+付け櫓+土塀の構成なのに、狭間がいっさい有りません。
 本当にこれなのかなぁ…と思いながらくぐったら、木橋になってもう城外でした。
う~ん、雨宿りに時間を喰われて、あまり見るもん無かったなぁ…山形城はこれでおしまい。
駅に向かいます。
 
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復元:西門の高麗門  土塀に階段と武者走りはあるが…
 
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挟間はありません これで合ってるのかなぁ?
  
 
3.山形駅
 山形からは新幹線で米沢に移動します。
東京で新幹線というと何か高級でシステマチックで少し緊張しますが、山形駅では在来線と変わらぬ雰囲気です。
 駅のホームになんと干し柿が吊るしてありました。 
誰でもおなかが空いたら取って食べれるのか、とても人間味のあるローカル色ですw
 
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