日本100名城  №14  水戸城                登城日 2013.10.27
 
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所在地      茨城県水戸市三の丸
城郭構造     連郭式平山城
通称        馬場城、水府城
築城年      1190~8年(建久年間) 鎌倉時代
築城主      馬場 資幹
主な改修者    佐竹義宣、徳川頼房
主な城主      大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
廃城年       1871年(明治4年)
遺構         門1棟・藩校、土塁、空堀
文化財指定    茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
 
 
 秋も深まった吉日、久々に百名城に戻って水戸城に行って来ました。
ブログ等では“城らしくない”と評判の芳しくない水戸城ですが、まずは自分の眼で見て、感じてみようと思います。
 
   水戸の築城は古く、平安末期まで遡ります。 平国香の臣:馬場資幹の築城で“馬場城”と呼ばれていました。
 室町時代には佐竹氏の家臣:江戸氏の支配するところとなりますが、戦国末の“小田原征伐”で、江戸氏は北条氏に加担したため滅亡して、旧領は佐竹氏のものとなりました。
 当主の“佐竹義宣”は要地:水戸に着目し、居城を太田城から移します。 同時に大規模な改修を行ない、名前も“水戸城”に改めました。
 佐竹氏は“関ケ原”の結果、秋田に転封となり、徳川家康の十男:頼宣が20万石で入ってきます。 
 
 しかし5年後には頼宣には駿府50万石が与えられ、替わって十一男の“徳川頼房”が25万石で入ると、水戸藩の藩主は固定し、明治まで続いて行きます。
 江戸期の水戸城は地勢上、想定する敵も居らず、佐竹時代の縄張りを活用して、防御機能の整備は殆ど無かったと言われています。 
その少ない遺構も幕末の藩論を分けた内乱で失われ、建物は藩校:弘道館と“薬医門”を残すのみとなっています。
 
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水戸城縄張り図
 
 
 
戸城を歩く
1.アプローチ

 東京から水戸へは上野から常磐線で行きます。 
特急:スーパーひたちに乗り込み、豊かな田園風景を車窓に見ながら、1時間強でもう水戸到着です。
 
 水戸駅で北口の降りると、“御老公主従”の銅像が出迎えてくれますが、そのバックに見える小高い丘が水戸城です。
 銀杏坂から登って、三ノ丸の“弘道館”を目指します。
水戸駅界隈に来るのは初めてですが、『寂れた田舎町』のイメージだったのに、休日も手伝ってか、人出が多く活況を呈していました。
『活力のある中核都市』に書き換えしますw
 
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 弘道館は震災被害の修復工事中
 
 
2.弘道館
 三ノ丸の壇上に登ってきました。 
水戸城は北を流れる那珂川と南の千波湖に挟まれた舌状台地を空堀で区切った、戦国期の匂いの濃い連郭式の平山城です。
 比高差は20mくらいか。石垣は無いのですが、丘の斜面がより切り立った感じで、険しさを感じます。
 小学校に沿って歩いて行くと、弘道館が見えてきました。
藩校としては立派な建物で、あいにく講堂は修理中(震災で)で入れませんが、さすがは“水戸斉昭”の遺産です。
 職員の方達もとても気さくで、覗いた売店のおばちゃんとしばし水戸藩の人材談義に花が咲きました。
 
 
3.二ノ丸
 弘道館の前の道を渡ると、そこはもう二ノ丸との堀の端です。空堀+土塁の土の城の構造ですが、その規模が半端ない!
 
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巨大な空堀の底に街がある!
 
 二ノ丸に渡る大手橋の上から眺めると、比高差はやっぱり30mで、堀底を広い車道が走り、幾つか店舗も見えます。
 土塁の立ち上がりも急で、上端の幅は70m以上あるでしょうね。これは、箕輪城の空堀で驚いてる場合じゃありません。
 
 橋を渡ると道路は喰い違い形状になって、城門の跡があります。 
ここから二ノ丸で、御殿があり、御殿脇には“天守”ともいうべき“御三階櫓”があった場所ですが、今は道の両側に学校が建っていて、もちろん“怪しいオジサン”は中に入る事はできません。
 サラリと雰囲気だけ味わって、奥の“本丸”へ向かいます。
 
 
4.本丸
 本丸との境にも同じような堀切があります。 
今度はなんと堀底を“水郡線”の電車が走っています。
土壁はこちらの方が反りがきつく、石垣となんら変わらない角度を持っています。 
足掛かりは無いし、滑るし…石垣よりこっちの方が厄介かも。
 
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こんな空堀は見たことありません
 
 
 本丸の中には“薬医門”という重文の門がある筈ですが、学校の敷地内でもあります。 
ウロウロしてて通報されてもいけないから、しばし考えましたが、看板をよく読み解くと、『学校専用路 史跡見学者以外立ち入り禁止』と書いてあります。 
 市の観光課の要請でしぶしぶ承諾してるんでしょうね。
史跡見学者は堂々と入って行きます。
 本丸内に入ると、門付近は土塁に囲まれている事が判ります。 薬医門は学校の玄関前に展示物の様に建っていました。
 
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水戸一高内にある薬医門
 
 
5.再び弘道館
 弘道館に戻って、案内のオジサンをつかまえて質問攻め。
・水戸藩は“常府制”で江戸で費用が掛かったから、城に掛ける金が無かった。
・三代家光の頃に、石垣を積もうという話になったが、家光の死で御破算になってしまった。
…という事情が判りました。
 そして、石垣は“要らない”し、攻めてくる敵が居ないよね! という結論で一致しましたw
 
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南側の土塁下から見上げる城址
  
 
6.下城
 時間に余裕があったので土塁の下をグルリと一周し、三ノ丸西の堀を見てから駅に向かいました。
 城らしくない…どころか、城を構成する地形はほぼそのまま残ってて、モノが無いだけ妄想族には見どころ満載です。 
 台地状の城らしく、壇上の地形はフラットです。 
比高差のある険しい土塁が攻め口を少なくしており、敵が攻め口を変えればそれに合わせて守備兵の配置も容易に変えられる…。
誠に攻め難い城だと思います。
 
 
 最後に、水戸城のスタッフの方々、お世辞抜きでみなさん明るく気さくで親切でした。
自分自身の想い込みも修正できたし、訪れて良かったと思える城です。
佐竹義宣は連れて行く人選を間違えたなぁ。
 
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駅前に立つご老公一行