日本100名城  №65  月山冨田城          登城日 2013.8.14
 
イメージ 1
 
所在地      島根県安来市広瀬町富田
城郭構造    複郭式山城
通称         月山城、富田月山城
築城年      1185年(文治元年) 平安時代
築城主        佐々木義清
主な改修者    尼子経久、堀尾吉晴
主な城主      尼子氏、吉川元春、堀尾吉晴
廃城年       1611年(慶長16年年)
遺構          石垣、曲輪、堀切、井戸
文化財指定     国の史跡
 
一夜明けて、今日は山陰の雄、尼子氏の拠城月山富田城を目指します。
 
 尼子氏は室町初期から山陰を領する守護大名で、出雲の地を本拠に、戦国中期の“尼子晴久”の頃には島根、広島の東半分と、鳥取、岡山の全土を領する大大名になりました。
 東の赤松氏、西の大内氏と覇を競っていましたが、その後台頭してきた毛利氏に徐々に蚕食され、戦国の終焉を待たずして滅んだ一族です。
 
 出雲の月山に居城が置かれたのは1390年頃で、それ以前の守護もここに城館を持って支配していたと言われています。
 戦国の世になって、月山冨田城は幾度か合戦の舞台となりますが、堅固な要塞城はその都度敵を跳ね返し、“難攻不落の城”の名を天下に知らしめました。

 晴久が急死し、義久の代になると毛利との均衡が崩れ、苦戦を強いられますが、1566年ついに一年余の籠城の末に食料が尽きて降伏開城します。
 尼子氏の残党は山中幸盛(鹿介)を中心に再興を試み、冨田城奪回戦を仕掛けますが力及ばず、再興はなりませんでした。
毛利領となった冨田城には吉川元春が入り、城郭を整備して山陰の支配拠点とします。

 江戸時代になり、毛利が防長二ヶ国に押し込められると、代わりに入って来たのは堀尾家で、堀尾吉晴は発展の余地の無いこの地を嫌って松江に新城を築き、月山冨田城はその長い歴史に終止符を打ちました。
 
イメージ 2
月山富田城立体模型
奥が月山山上の本丸で、その麓が山中御殿
  
 
 
月山冨田城を歩く
1.アプローチ

 松江から真っすぐ南下して、中国山地に分け入るR432でひと山越えると、中海に注ぐ飯梨川が造った細長い盆地に出ます。
 安来市広瀬町、ここに月山冨田城があり、かつては尼子の城下が栄えていました。
 
 20年ほど前、この町にある“横山大観”の画を中心に集めた“足立美術館”を訪ねた事があり、その時に見た山頂をテーブル状に削った様な月山の異様な山塊が記憶に残っています。
 しかし、山越えから来たルートからは、魚の背を正面から見る様な尖がり山でしたね。
 
 この城は山上の詰め城と山麓の根小屋がハッキリ分かれる典型的な山城で、詰め城の規模と山の峻嶮さ、根小屋の規模の大きさで、大勢力が籠って、かつ負けない城なのが見どころと言われます。
まずは登城拠点の歴史資料館にクルマを停めます。
 
イメージ 3
 道の駅に併設の資料館はあいにく休館日
 
 
2.果敢に登城
 歴史資料館はあいにく盆休みで休館でした。 
まぁ、係のおばちゃんも娘が孫を連れて帰省してるのに、『出て来い』とは言えませんよね。 
 でもヤバイ、パンフが入手出来ず、こんな時はだいたい失敗する… そんな予感の中で強行登城します。
 
 歴史資料館を出て、すぐに遊歩道を登りに掛かります。 
“御子守口”からの登城になりますが、路傍の立て看板が頼り。 
最初に着いた削平地は“千畳平”。もっと広い削平地ですが、さらに登って“太鼓壇”があります。 ここで危急を報せる太鼓を叩いたのかな…。
 
イメージ 4
“花の壇”にある山中鹿介像
 
 その上の壇は“奥書院平”だそうです。
イメージ出来ないので、ここでちょっと休憩。
 
 大きな戦国の山城だとは判りますが、縄張り図でもないとそれぞれの郭の機能と重要さが判りません。
『そうかのぅ』という顔で“山中鹿介”の銅像が見下ろしています。
 
 再度登り始めます。 次は“花の壇”でここには建物があります。 
御殿と名がついてますが、これでは下級武士の自宅規模ですね。
 しかしこの辺から土塁構成に意志が感じられる様になって来ます。 この花の壇はエリアの最上段で、どうやら出丸機能らしい事が判ります。
  
 一旦下って土塁に沿って緩やかに登って行くと、急に石積み遺構が見えて来ました。 
よく聴く“山中御殿”の様で、大きな城の本丸御殿以上の広さを備えています。
 山中御殿は三段構造で、段差は石垣で区切られてますから、たぶん吉川、堀尾時代にはここに御殿を造営して住んで居たのでしょうね。

 山中御殿の最上段から本丸(詰め城)に向かう登山路が始まる様ですが、この辺り一面“兵どもが夢の跡”で、夏草が30cm以上に生い茂っています。
これは整備不行き届きではないか…。
 
イメージ 5
山中御殿跡は夏草が育ち盛り   中央が本丸登城口
  
 イメージ 6
草に侵食される櫓台 

 

 
 
3.あえなく下城判断
 おまけにこちらの装備ときたら、短パンにサンダル履き。 
家族旅行とはそういうモンだから仕方ないけど、盛夏はマムシの活動期でもあります。 
堀尾忠氏の二の舞にならぬ様、今回はここまでで下城判断をします。
 
 月山冨田城は“大規模山城”である事を知りながら、なんとも間抜けな訪城になってしまいました。
 ここから見える山の尾根といわず斜面といわず、全山要塞の郭が眠っている筈です。
今回見た麓のエリアは尼子以降の大名の痕跡が多分に感じられますが、あの月山山上には尼子の遺構が待っている筈です。
 また再登城します。
 
イメージ 7
路傍の古い石仏  いつの時代のものか…
 
 
 松江市は『松江城を国宝に』でしたが、ここ安来市は『山中鹿介を大河ドラマに』らしく、幟旗がいっぱい立っています。
 キャラ的によく似た、上杉家の直江兼続が採り上げられてますが、尼子氏の知名度と地域性から、鹿介で1年持つかなぁ? 平清盛でさえ(私は面白かったが)時代背景や登場人物がよく判らん…て声が多かった様ですからね。
難しいな。