日本100名城 №64 松江城 登城日 2013.8.13

所在地 島根県松江市殿町
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城
通称 千鳥城
築城年 1611年(慶長16年) 江戸時代
築城主 堀尾忠氏
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、堀
文化財指定 国の重要文化財(天守)、国の史跡
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城
通称 千鳥城
築城年 1611年(慶長16年) 江戸時代
築城主 堀尾忠氏
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、堀
文化財指定 国の重要文化財(天守)、国の史跡
お盆休みに墓参を兼ねた家族旅行で、島根の2城を訪問しました。
まず松江城です。
松江城は“現存12天守の城”のひとつで、ホンモノの天守を持つ城です。
松江城は“現存12天守の城”のひとつで、ホンモノの天守を持つ城です。
松江市街の西北に位置し、宍道湖畔の北側の丘陵を利用して構築されています。
関ヶ原の戦いが終わった1600年、浜松城主“堀尾忠氏”は24万石への加増を得てこの地に移封します。
最初は“月山富田城”に入るのですが、忠氏はすぐに急死し、子の忠晴が跡を継ぎます。
しかし幼少の為、藩政は祖父で織田信長の元で活躍した堀尾吉晴(茂助)が補佐します。
吉晴は山間の山城では不便が多い事から、水運の便が良く城下を形成しやすい松江に築城を決意し、1607年から4年の歳月を掛けて完成させました。

大手門脇の堀尾吉晴像
戦国の気風をこの城に注入したと言われてますが、吉晴も完成間近に亡くなっています。
忠晴も若くして夭折し、堀尾氏が三代で改易になると、京極忠高がやって来て、三ノ丸を増築し、城の全容が完成します。
忠晴も若くして夭折し、堀尾氏が三代で改易になると、京極忠高がやって来て、三ノ丸を増築し、城の全容が完成します。
しかし忠高には嗣子がなく、一代で廃絶となってしまいました。
変わってやって来たのは信州松本からの松平直政(越前家)で、以後は明治までこの家が繋いで行きました。
変わってやって来たのは信州松本からの松平直政(越前家)で、以後は明治までこの家が繋いで行きました。
城は廃城令ですべて売却撤去される事になりましたが、天守だけは旧家臣が金を出して買い取り、保存される事になったそうです。
現在、三ノ丸は県庁に変わったものの、他は城址公園としてよく整備されていて、本丸が昭和に解体修理されたのに続き、本丸、二ノ丸の構造物が復元され、松江観光の目玉として賑わっています。
現在、三ノ丸は県庁に変わったものの、他は城址公園としてよく整備されていて、本丸が昭和に解体修理されたのに続き、本丸、二ノ丸の構造物が復元され、松江観光の目玉として賑わっています。
松江城を歩く
1.アプローチ
米子からのクルマ移動です。
1.アプローチ
米子からのクルマ移動です。
美保関に渡って宍道湖の北岸沿いにR431一本で城の大手に至ります。
大手前の観光駐車場に停めましたが、お盆で空きが無く、若干並びました。 路肩に並ぶ事になるので、南側からアプローチするのがイイですね。
大手前の観光駐車場に停めましたが、お盆で空きが無く、若干並びました。 路肩に並ぶ事になるので、南側からアプローチするのがイイですね。

大手口の内堀と二ノ丸高石垣 向こうは三ノ丸に建つ島根県庁
2.城内へ
駐車場は大手門前の堀端にあり、入城路はすぐに判ります。
駐車場は大手門前の堀端にあり、入城路はすぐに判ります。
堀には屋形船風の木造船が浮かんでいて、船からも城を遊覧できる様です。 これは他にあまり無い試みですね。
大手の土橋を渡って、大手門から二ノ丸に入ります。
大手門は石垣が残るのみで建物は有りませんが、二層の櫓門を持つ構造で、いま松江市では復元の為に当時の資料や古写真を探しているそうです。
石塁の間隔が広く、大きな門であった筈です。

大手門跡
二ノ丸は二段に分かれていて、下段はだだっ広い広場ですから、重臣屋敷という感じですが、本丸の基壇とを隔てる石垣が“折れ”を持って続き、見どころの一つです。
上段には藩の政庁の機能があった様で、“御広間跡”の看板があります。 敷地内には“松江郷土館”なる明治の洋館が有りますが、営業はしてない模様でした。
上段には藩の政庁の機能があった様で、“御広間跡”の看板があります。 敷地内には“松江郷土館”なる明治の洋館が有りますが、営業はしてない模様でした。
南には三棟の“櫓”が復元されており、大手~三ノ丸方向に睨みを利かせています。
近年の復元だから新しいのだけど、造り方は古式工法で忠実に再現しています。こうでなくちゃ。
上段の北側には本丸の石垣が聳えます。
上段の北側には本丸の石垣が聳えます。
角石は切り石を使って算木積みされていますが、中間は完全に野面積みで、戦国の面影があります。
見た目よりも堅牢さを重視した結果なのでしょうか。

二ノ丸石垣群
3.本丸
本丸は有料なので、チケットを買って入って行きます。
御殿があったであろう壇上は結構な広さがあり、宍道湖を一望する景色は解放感を覚えますが、ここで圧倒的に存在感を放っているのは、奥に聳える“現存天守”です。
本丸は有料なので、チケットを買って入って行きます。
御殿があったであろう壇上は結構な広さがあり、宍道湖を一望する景色は解放感を覚えますが、ここで圧倒的に存在感を放っているのは、奥に聳える“現存天守”です。
昔ながらの下見板を張った漆黒の天守は安土城から派生する望楼式で、4層5階の規模を持って南側には2階建ての付け櫓を従えています。
写真のイメージより随分大きく感じるのが正直な感想ですね。
内部に入って見ると、ここもホンモノの世界が広がります。
ここ独自のモノとしては、“包み板”と呼ばれる柱構造で、細い角材を束ねて、鉄輪で止めた柱があちこち見うけられます。
今で言う“集成材”ですが、係員によると『この方が強度があるんです』という事でした。 確かに割れや反りは出にくいかも知れませんね。
内部に入って見ると、ここもホンモノの世界が広がります。
ここ独自のモノとしては、“包み板”と呼ばれる柱構造で、細い角材を束ねて、鉄輪で止めた柱があちこち見うけられます。
今で言う“集成材”ですが、係員によると『この方が強度があるんです』という事でした。 確かに割れや反りは出にくいかも知れませんね。
ここの天守台には“人柱伝説”があります。
築城時に天守台を築くのだけれど、その度に崩壊して工事が行き詰ったので、急遽“盆踊り”を催して、集まった女人の一番綺麗な娘を人柱として埋めたところ、石垣が安定して、無事に竣工を迎えました。
ところがこの石垣からは夜な夜な娘のすすり泣く声が聞こえ、前述の様に堀尾親子は相次いで急死し、堀尾氏は改易になりました。
築城時に天守台を築くのだけれど、その度に崩壊して工事が行き詰ったので、急遽“盆踊り”を催して、集まった女人の一番綺麗な娘を人柱として埋めたところ、石垣が安定して、無事に竣工を迎えました。
ところがこの石垣からは夜な夜な娘のすすり泣く声が聞こえ、前述の様に堀尾親子は相次いで急死し、堀尾氏は改易になりました。
この話を信じた京極氏は天守を放置して、荒れ放題だったそうです。
よくある与太話かもしれませんが、人柱を使ったのは事実だったかも知れませんね。
よくある与太話かもしれませんが、人柱を使ったのは事実だったかも知れませんね。

戦国の気風を伝える望楼型天守
4.北ノ丸
本丸の北東には“北ノ丸”と呼ばれる広大なエリアが広がります。
本丸の北東には“北ノ丸”と呼ばれる広大なエリアが広がります。
本丸までの総石垣のエリアと違い、あまり石積みを用いない土塁構造ですが、削平地も多く、庭園や他目的の御殿があったのかもしれません。
この外はもう内堀が巡っており、船着き場もあった様です。
例えると、江戸城の東御苑と吹上御苑みたいな関係かな。
この外はもう内堀が巡っており、船着き場もあった様です。
例えると、江戸城の東御苑と吹上御苑みたいな関係かな。

北の丸への冠木門 簡易型だが雰囲気がある
5.下城
盛夏の訪城でしたが木陰も多く、バテる事なく拝見させて貰いました。
盛夏の訪城でしたが木陰も多く、バテる事なく拝見させて貰いました。
特に天守の最上階は開け放たれてて、湖からの涼しい風の快適さが印象に残ります。
松江城を“国宝”にする運動がされている様ですが、国宝4城と比べても、そう見劣りする城ではありません。
松江城を“国宝”にする運動がされている様ですが、国宝4城と比べても、そう見劣りする城ではありません。
松本、犬山に比べると城の規模も大きく、天守は彦根を凌ぎます。
あとは国宝の絶対数ということかな? 重文でも価値は変わらないといいますからね。
陽も傾いてきたので、今夜の宿“しんじ湖温泉”に向かいます。良い宿に泊まれるのが、家族同伴のメリットですねw

復元:二ノ丸南櫓