日本100名城 №92 熊本城 登城日 2013.07.13
続きです…

本丸御殿石垣
清正の石垣(右)に対し拡張した細川の石垣(左)
4.本丸
飯田丸から“数寄屋丸”を経由して“本丸”へ向かいます。
飯田丸から“数寄屋丸”を経由して“本丸”へ向かいます。
この路は本丸石垣の下を辿る経路になりますが、これまた有名な細川氏による“増築石垣”があります。
ここまで来ると石垣の野外美術館ですね。

芸術的な石の壁が幾重にも重なります
本丸に上がると、大小天守の威容が眼に飛び込んで来ます。
これはコンクリートの“復興天守”なのですが、外観上はまったくそれを感じさせない妥協のない仕上げで、日本を代表する城としての心意気が伝わって来ます。
難を言えば、天守に入城する際の橋の存在で、これは観光客の安全と便宜を図った結果で、否定するものではありませんが、当時の物ではありません。

おなじみの立ち姿です

小天守への虎口は、本丸からではなく、下層から繫がるのがオリジナルの様です
本丸には御殿の一部(御座所の部分)が復元されているので入って見ます。 どうも新品の御殿というのは綺麗過ぎて居心地悪いのですが、清正の気持ちになって拝見します。

近年復元された本丸御殿の一部
最大の見どころで“君子の間”というのがあります。
これを見ると、清正の想い…20万石足らず(当時)にしてこの城の威容も堅固さも判る気がします。
そして、細川氏がこの御殿を使わなかった理由も…。

右上段が清正の座
床の間を背にして座るのは?
5.宇土櫓
本丸壇上の西の端には“宇土櫓”という現存の五階櫓があります。
本丸壇上の西の端には“宇土櫓”という現存の五階櫓があります。
実は熊本城で一番見たかったのがここで、じっくり拝観させて貰います。

三層五階の現存“宇土櫓”ここでしか見れない豪勢な櫓です
宇土櫓の名前の由来は、かつて肥後の国を分け合ってた宇土城主“小西行長”が改易となった後、清正はその家臣を一部召し抱えますが、その家臣に管理させたのがこの櫓だそうです。
以前は宇土城天守を移築した…との説もありましたが、今は否定されています。
櫓の外観の統一感からして、熊本城オリジナルなものです。
その宇土櫓ですが、豊臣期の創建以来、数々の戦火を生き残って、当時の面影を今に伝える貴重な“証人”です。
復元建物の多くの部分がこの櫓を参考にしている事でしょう。
内部に入って見ます。
内部に入って見ます。

夏休みで観光客で賑わう城内ですが、この貴重な櫓に足を向ける人が少ないのには唖然とします。
まぁ、その分じっくり観る事が出来ますが…。
さすがに年季を感じる建材で、まさにホンモノ。
さすがに年季を感じる建材で、まさにホンモノ。
寸分たりとも妥協を感じませんね。

宇土櫓内部 すべてホンモノ
ただ、柱と梁に金属の補強板が目立ちます。
ガイドの方に尋ねたら『戦前に駐屯してた陸軍が付けた物』で、『これが有るから重文止まり』という事でした。
それから百年近く経過してなお一般公開されている訳ですから、メンテナンスの苦労が偲ばれますが、やっぱりホンモノはイイです。
それから百年近く経過してなお一般公開されている訳ですから、メンテナンスの苦労が偲ばれますが、やっぱりホンモノはイイです。
今後も大事にして頂きたいし、訪れる人には是非ホンモノに触れて欲しいものです。

宇土櫓から見える天守の姿
6.下城
滞在3時間、こんな時間で見れる城じゃないので、駆け足のハイライト部分のみとなりましたが、フライト時刻が迫ってきたので下城します。
滞在3時間、こんな時間で見れる城じゃないので、駆け足のハイライト部分のみとなりましたが、フライト時刻が迫ってきたので下城します。
築城は我々の持ち家と同じで、城主の意志とそれを支える経済力で仕様が変わります。
国家事業としての天下普請の巨城もあれば、池田輝政100万石の姫路城も素晴らしい城です。
それらに伍する熊本城は加藤清正19万5千石…。
このギャップが疑問でしたが、今回の訪問で何か見えた様な気がします。

加藤清正といえば豊臣秀吉が子供同然に育てた“子飼い大名”で、秀吉の意志を実現する事が生きる全てといっても過言でない大名だったと思います。
秀吉の死後、不安定になる豊臣家をいかに支えるか…。
清正なりに考える戦略があったのだと思います。
或いは生前の豊臣秀長とはそうした事を密かに話していたのかも知れません。
いざとなれば豊臣一族をここに収容して、豊臣家再建の拠点にする…そんな大きな目的と心意気が無ければ、こんな城は造りません。
いざとなれば豊臣一族をここに収容して、豊臣家再建の拠点にする…そんな大きな目的と心意気が無ければ、こんな城は造りません。

天守台石垣の勾配
そうした己を犠牲にしても義を重んじる清正の“人間性”が熊本人の琴線に触れて、“清正公さん”はいつまでも熊本一の誇りであり続け、遺した熊本城はその証しとして大切に忠実に守られて行くんだと感じました。
しかし、そうした気持ちとはうらはらに、豊臣家の命運は“淀殿”の系統の側近に委ねられる事になり、晩年の清正の心労は並大抵のモノでは無かった事でしょうね。
二条城での秀頼と家康との会見に立ち会った後の突然死も合点が行きます。

熊本城の歴史を見続けて来た?大楠
櫨方門から出て、行幸橋を渡ると、袂にある清正の銅像が、背中に夕日を浴びて哀しげに見えてしまいました。