日本100名城  №44  名古屋城 ②       登城日 2013.06.02
 
名古屋城の続きです
 
 大天守の手前には本丸の空堀があって、たいそうな深さに見えます。
水利には恵まれたこの城に空堀が多いのは、敵兵が落ちた際のダメージの大きさが基準になっています。
 
 堀底には二頭の鹿が草を食んでいましたが、名古屋城で鹿が放し飼いにされてたのは江戸時代からで、当時は“奈良公園”状態だった様です。
 今の鹿は昭和になってから市内の動物園で増えたものを入れたのが始まりだそうですが、年々数を減らし、今居るのはメスの母子が二頭のみだそうです。
 
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 堀底に住むシカの母子 まもなく絶えますね
 
 堀端を天守下まで進みます。 
ここまで来ると天守の大きさはもう巨大の一言で、まるで覆い被さってくる錯覚を覚えます。  
 この巨大な重い天守を支える高石垣は後にも先にも“加藤清正”にしか築けなかったそうで、江戸城を初め他の大型天守の石塁が低く抑えられている事がそれを証明しています。
熊本城と並ぶ“清正流”の代表作ですね。
 
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 その石垣も、西側から見ると“名古屋空襲の傷跡”が生々しく、焼夷弾を受けて堀に崩れ落ちた天守は一昼夜燃え続けて、石の損傷を招いてしまいました。
 現在の復興天守はコンクリート製で、地中に巨大な基礎を造り、石垣には重量を加えていませんが、もし木造天守を復元する事になれば、石垣から…という事でしょう。
 
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 焼けて損傷の激しい石垣(下1/3あたり)
 
 
5.御深井丸
 天守に眼を奪われ、天守の西下まで来ましたが、そこはもう“御深井丸”と呼ばれる郭内でした。
 この郭は本丸を取り巻いて北西に出っ張った、いかにも戦術上重要な郭です。 
ここを取り巻く水堀はこの城最大の幅があり、50mは下らないでしょう。 おそらく鉄砲の射程は完全に外れますね。
 
 敵兵が取りつくには船で渡るしかなく、守る機能としては二基あった櫓を連結した“多門櫓”でグルリ囲う計画でしたが、実現には至りませんでした。 渡ってくる船を上の全面石落としから狙い撃つ構想だったんですね。
 
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清洲櫓
 
 現在、北西の隅櫓が遺構として残っており、通称“清洲櫓”と呼ばれています。 
これは“清洲城天守を移築したもの”という伝承によるものですが、訪れた時ちょうど公開中だったので覗いて見ました。
 三層三階の大きな櫓で、地方の城なら天守に相当する大きさです。
各層に武者走りに囲まれた畳敷き構造の床が確認でき、もし本当なら重文どころか国宝級の価値がありますね。
 
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清洲櫓から名古屋駅方面を見る
 
 
 
  御深井丸には他にも明治時代に駐屯した陸軍の倉庫(弾薬庫)が残されており、煉瓦造りの堅牢な佇まいで建っています。 
 名古屋空襲の時ここには本丸御殿の障壁画など、重要な文化財が千点あまり疎開しており、焼失を免れました。
それが今の本丸御殿復元に繋がっているのは言うまでもありません。
 この倉庫は駐屯した連隊に後の“乃木大将”が居た事から“乃木倉庫”と呼ばれています。
 
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不明門脇の“清正石”
この工区は黒田長政が担当したが、巨石=清正 が定着していたからそう呼ばれた
  
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6.再度本丸
 不明門をくぐって本丸に入ります。 
日本を代表する名城・巨城だけに、ここまででもう消化しきれないくらいの情報が入ってしまいました。
 
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原材料を活かして、究極の修理ですね
 
 天守を覗いて見たい気もありますが、尾張徳川家は市内の別の場所に“徳川美術館”を持っており、数々の国宝・重文はここにあります。
 新顔で一部公開が始まった本丸御殿は大行列が出来て入る気にならないので、真新しい御殿の唐破風屋根を見ながら、大手二ノ門から退出します。 
 
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部分公開された本丸御殿玄関
 
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大手二ノ門
古さが歴史と格式の高さを物語っている
 
 またこの門が古くて味わい深い佇まいです 
こんな城は何回も来て少しずつ観るのが正解ですね。
 
 
6.下城
 清須櫓のガイドさんの話しで、『どれだけ強いか、一度戦わせて見たかった…』という言葉が印象的でした。
 
 尾張藩は62万石ですが、ほとんど耕地になる尾張は幕末の実高では90万石を越えたと言われます。
 徳川宗家や幕閣にとって、地位も実力もある尾張藩は煙たい存在だったに違いなく、御し易い軽い神輿を求めて、御三卿に靡いた結果、いとも簡単に母屋を亡くす結果になってしまいます。
 
 明治維新で戦った城は幾つかありますが、熊本や若松が示す様に、一定の城兵を囲えて、強固な外堀を持つ巨城は当時の兵器をもってしても抜けていません。 
 名古屋城はそれらにも増して巨大で、2万もの兵力を温存していましたから、薩長にすれば攻城どころか、木曽川を渡るのも無理な厄介な城なのが実態でした。
 
 そうはさせなかった力の根源が中小の幕閣大名の権勢欲に根ざすモノだったとしたら、尾張藩は適切な判断をしたのかも知れません。
 家康の期待に反して戦わずに“汚名を着てしまった”名古屋城ですが、戦力として見た時の“日本の城の最終完成品”で、持てるポテンシャルは間違いなく日本一です。