日本100名城  №44  名古屋城 ①         登城日 2013.06.02
 
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所在地     愛知県名古屋市中区本丸1-1
城郭構造   梯郭式平城
通称       金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
築城年     1609年(慶長14年) 江戸時代
築城主     徳川家康
主な改修者  
主な城主    尾張徳川家
廃城年      1871年(明治4年)
遺構        櫓3棟・門3棟、庭園、石垣、堀
文化財指定  国の重要文化財(櫓3棟、門3棟)
 
 
 名古屋城は子供の頃に一番好きだった城です。
堅牢な高石垣と巨大な大天守は子供の眼には“掛け値なしの最強の城”に見えた記憶があります。
 
 名古屋城の前身は“那古屋城”で、今川氏が築いたものを織田信秀が奪取し、織田氏の居城にしました。
織田信長もここで生まれたと言われます。
 
 信長の代になって、織田氏の居城は“清洲城”に移り、那古屋城は廃城となりますが、徳川の時代になった1609年、家康は那古屋城跡地に尾張の中心としての巨城の築造を決め、翌年から西国大名を使った“天下普請”で着工し、1613年には主郭が竣工し“名古屋城”と命名されます。
 家康はこの城に九男の義直を入れ東海の要の御三家筆頭:尾張藩を設立します。これに伴って、“清洲”は町ごと移転し、“清洲越し”は4年に及びました。
 
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御深井丸から見る堀 広い!
 
 
 1615年に“大坂夏の陣”が終わった事で、惣構えの構築は中止されましたが、主郭部の広大な城域は明らかに大砲戦を想定して縄張りされており、豪壮な石垣とド肝を抜く巨大天守が城下を見下ろし、身分を問わす街道を行き交う人々の眼には日本一の城に映った事でしょう。
 
 名古屋城は明治になるまで“御三家筆頭:尾張徳川家”の居城で、西国の雄藩に無言のプレッシャーを与え続けます。
 ここまでは家康の思惑通りですが、敵は意外にも内部に居ました。 
幕府の政策で骨抜きになった外様雄藩に替わり“仮想敵”になったのは何と尾張藩でした。 
幕閣にとっても尾張藩は決して“軽い神輿”ではなく、15代を通じて尾張藩から将軍が出る事はありませんでした。
 
 幕末の動乱を通じ、早くから新政府に“恭順”した尾張藩には、そうした内情があり、スムースな政権移譲に貢献しました。

 

 
 
 

名古屋城を歩く
1.アプローチ

 城で持つ名古屋は城を中心に発展しましたが、主要な街道の“東海道”と“中山道”は南北に少し離れ、それを繋ぐ“岐阜街道”“木曽街道”“美濃街道”“佐屋街道”などが城下から放射状に放たれた街造りがされています。
 名古屋駅からのアプローチは、内堀に近い地下鉄名城線の“市役所”が至近ですが、規模を体感するには外堀から見れる鶴舞線の“丸の内”下車をお奨めします。
 
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 地下鉄を降りて、200mほど北上した“新御園橋交差点” 名古屋城はここから始まります
 
 
 
2.三ノ丸
 城の縄張りとしては、天守のある“本丸”、倉庫群の“西ノ丸”、北西を守る“御深井丸”、常御殿の“二ノ丸”重臣屋敷の“三ノ丸”が郭内です。
 図上では南に偏った縄張りに見えますが、北西から北側は当時は人を寄せ付けない泥湿地だった様です。
 
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外堀は空堀で、擁壁も土塁の状態で工事は打ち切られた様です
 
 
 三ノ丸内は今は県や市の官公庁が集まる場所で、広い道路が縦横に走り、大きなビルが林立するエリアです。 
遺構といえるモノはほとんど無いビジネス街ですが、こうした庁舎の駐車場や路側帯は休日は那古屋城観光に開放されますので、ネライ目な場所です。
 
 地下鉄丸の内駅を降りると伏見通りで、これを100mほど北上すれば“外堀通り”と交差します。 
その名の通り城の外堀に面した通りで、通りの北側を東西に直線的な空堀が現存しています。
 外堀は城の東と南を防御するもので、北の湿地帯(現:名城公園)から発し、L字型に西の堀川まで走りますが、南の一辺だけで1.5kmはある長大なものです。
 
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ほとんど手付かずの外堀
 
  因みに、堀川も人工開削した運河で、築城資材の運搬と竣工後は外堀機能を果たす事を目的に造られました。担当したのは福島正則…と言われています。
 
 郭外から三ノ丸へは三つの門で繋がってた様ですが、大手門だったであろう“本町橋”から入って行きます。 
門の遺構は現在はありません。
 三ノ丸内は今は県や市の官公庁が集まる場所で、広い道路が縦横に走り、大きなビルが林立するエリアです。 
遺構といえるモノはほとんど無いビジネス街ですが、こうした庁舎の駐車場や路側帯は休日は那古屋城観光に開放されますので、ネライ目な場所です。
 
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外堀を渡り三の丸へ
 
 
3.二ノ丸
 広い三ノ丸を過ぎると、また東西に走る内堀があります。 
ここも空堀ですが、対岸の塁は高い石垣になり、明らかに主郭部である事が判ります。
 二ノ丸には藩の政庁である二ノ丸御殿があった様で、北側には庭園も整備されていますが、今は大相撲でお馴染みの“愛知県体育館”がデン!と座って、存在感を放っています。
 
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 内堀沿いを西に進み、名古屋市能楽堂の立派な和風建築を左手に見て、西ノ丸門から“城内”に入ります。 
現在、本丸御殿の復元工事が行われていて、観光の入場はこちら経由の様で、橋を渡った枡形の内側に料金所が置かれていました。
 
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西ノ丸門と内堀
 
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  西ノ丸門内
 
 
4.本丸
 チケットを買って西ノ丸門を入ると、そこは西ノ丸です。
西への備えの郭で、古絵図では蔵屋敷の様に使われてた様ですが、今は西ノ丸展示館などがあります。
 ただ、この郭に入るとすぐ前に本丸の郭が迫り、南面にある重文の二基の隅櫓と大手二ノ門が見渡せ、左手に眼をやると、清正流高石垣に建つ大小天守が圧倒的な迫力で聳え、この城の一番の写真スポットです。
 
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後編につづく