日本100名城 №12 会津若松城② 登城日 2013.05.19
会津若松城の続きです
4.天守
この天守、もちろんコンクリートの“復興天守”ですが、外観はほぼ忠実に再現されてますね。
この天守、もちろんコンクリートの“復興天守”ですが、外観はほぼ忠実に再現されてますね。
階段を登って、靴をビニール袋に入れて拝観です。
内部は“若松城天守閣郷土博物館”で、フロア別に会津の歴史に触れる事ができ、最上階は展望台。例えば、戊辰戦争は1フロアですから、展示物は豊富ではありません。
天守は走り櫓で堀端の干飯櫓に連結されてて、走り櫓内はみやげもの屋ですね。 途中で袴着姿のお姉さんが“白虎隊”の紙芝居を熱演していました。
天守内は一方通行で、南走り櫓からの退出となります。
天守内は一方通行で、南走り櫓からの退出となります。

すっかりお馴染みとなったアングル
5.本丸2
この時点で9時。
この時点で9時。
天守前には行列が延び、本丸内には人が溢れだしています。
本丸内は御殿跡ですが、建物はほとんど無く、芝生の広場になっています。 グルリと内部を歩いて見ます。
干飯櫓脇から土塁に登り、南側の堀を眺めると、この辺りは土塁になってて、上端のみに石垣が積んであります。
石垣は巧みに横矢を掛けながら続き、天石には板塀用の穴が掘られてて、当時の構造を語っています。

土塁はかなり高い
南東の櫓台まで来ました。
ここからは二ノ丸へ続く廊下橋が綺麗に見えます。
屋根はありませんが、名前がこちらが大手だよと言ってますね。
ここの区間は土塁ではなく総石垣で、忍び返しの付いた切り込み接ぎの高石垣です。
あとで戊辰の弾痕を探したけど、発見できません。
あとで戊辰の弾痕を探したけど、発見できません。
ここまでは入られていないという事ですね。

ここの石垣は凄い!
土塁を降りて、茶屋で抹茶をいただいて、二ノ丸に向かいます。
現在10時半、観光バスの団体がどんどん来て、もう凄い人です。
興味が無いのか、人混みに呆れたのか、疲れた顔の人達が木陰に集まっています。
大河ドラマの影響って、凄いんですね。
大河ドラマの影響って、凄いんですね。
6.内堀端
二ノ丸から内堀の端を歩いて西出丸の駐車場に向かいます。
堀端から見る本丸壇上と天守は、上から見た以上の高さと威圧を感じます。 この構図は蒲生氏郷が描いたものですから、やはり実践的な名城でしょうね。 蒲生92万石、上杉120万石に比べ、松平23万石ですから、“過ぎたる城”の大変さが頭をよぎります。
二ノ丸から内堀の端を歩いて西出丸の駐車場に向かいます。
堀端から見る本丸壇上と天守は、上から見た以上の高さと威圧を感じます。 この構図は蒲生氏郷が描いたものですから、やはり実践的な名城でしょうね。 蒲生92万石、上杉120万石に比べ、松平23万石ですから、“過ぎたる城”の大変さが頭をよぎります。

二ノ丸から見た本丸
7.下城
この後、飯盛山にも寄って帰りましたが、こちらも物凄い観光客です。
この後、飯盛山にも寄って帰りましたが、こちらも物凄い観光客です。
たくさんの白虎隊の記念館を併設した店が軒を連ねます。
白虎隊の悲劇が人の心を打つのは判りますが、商業的に彼らを利用してる様な気がしてなりません。
(会津の農民、町人は戦闘には加わらず、解放軍の政府軍を大歓迎したそうです)
徳川草創期の保科正之の教えを頑なに守り、徳川の藩屏に徹した松平容保の眼には、その後のどんな未来が見えてたのか? 明治維新は日本人が換わる転機でした。
徳川草創期の保科正之の教えを頑なに守り、徳川の藩屏に徹した松平容保の眼には、その後のどんな未来が見えてたのか? 明治維新は日本人が換わる転機でした。
たくさんの観光客は、仁に生き義に殉じた会津武士の生き様に触れて、何を想った事でしょう?
