日本100名城 №11 二本松城 登城日 2013.05.18

所在地 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
城郭構造 梯郭式平山城
通称 霞ヶ城、白旗城
築城年 室町時代中期
築城主 二本松満泰
主な改修者 丹羽光重
主な城主 二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
廃城年 1872年(明治5年)
遺構 天守台、石垣、堀
文化財指定 国の史跡
城郭構造 梯郭式平山城
通称 霞ヶ城、白旗城
築城年 室町時代中期
築城主 二本松満泰
主な改修者 丹羽光重
主な城主 二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
廃城年 1872年(明治5年)
遺構 天守台、石垣、堀
文化財指定 国の史跡
白河に続き二本松城。どちらも会津の支城的な役割が多かったのですが、二本松城は戦国史によく名の出る堅固な城…のイメージで登城です。
二本松城は室町時代、二本松満泰が最初に構えました。
二本松氏はこの地で繁栄しますが、戦国時代になると米沢の伊達政宗の攻撃を受けて苦戦します。
二本松氏はこの地で繁栄しますが、戦国時代になると米沢の伊達政宗の攻撃を受けて苦戦します。
当主:二本松義継は政宗の父:輝宗にとり成しを依頼し、所領安堵の降伏で収まりますが、お礼に輝宗を訪ねた義継はなんと輝宗を拉致して二本松に戻ろうとします。
政宗は直ちに駆け付け、父輝宗もろとも義継家中を射殺してしまいます。
怒った政宗は二本松城を囲み、翌年には二本松氏を滅ぼしてしまいました。
怒った政宗は二本松城を囲み、翌年には二本松氏を滅ぼしてしまいました。
伊達氏の所領となった二本松には、片倉景綱(小十郎)や伊達成実が入りましたが、秀吉の“奥州仕置き”で会津若松城主の支城となり、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明の城代支配の時代が続きました。

二本松城に城主が来たのは1643年で白河小峰城より丹羽光重が10万7千石で入城しました。
光重は藩庁の威容を整える為、城の大改修を行ない、本丸に石垣を積んで三重天守を築いたそうです。
以後、丹羽氏の支配で明治を迎えますが、戊辰戦争で“奥羽越同盟”に加わった二本松藩は、主力が白河に出兵した隙を衝かれ、“二本松少年隊”の悲劇を生みます。
以後、丹羽氏の支配で明治を迎えますが、戊辰戦争で“奥羽越同盟”に加わった二本松藩は、主力が白河に出兵した隙を衝かれ、“二本松少年隊”の悲劇を生みます。
1872年の廃城令で城の建物は全て破却されますが、近年になって復元整備が進み、大手の箕輪門と附櫓が復元され、天守台や本丸石垣も整備されて、城の形を取り戻しつつあります。

箕輪門下に建つ、“二本松少年隊”の像
二本松城を歩く
1.アプローチ
東北道は二本松ICで降りるのですが、正直かなり迷いました。
1.アプローチ
東北道は二本松ICで降りるのですが、正直かなり迷いました。
その原因は二本松では二本松城は“霞ヶ城”で統一されているのです。
地図も看板も施設も、みんな霞ヶ城ですから、二本松城を探しても何処にもありません。
仕方ないので、市立の歴史資料館を目指します。
二本松ICで降り最初の信号を左折して県道を東進し、駅を過ぎた最初の三叉路を左折すると、右手に歴史資料館があります。
これも判りにくく、図書館と病院の間の奥まった建物がそうで、駐車スペースが少ないので、図書館に停めました。(病院の駐車場は広いけど、門番が監視しています)
2.二本松市歴史資料館
資料館に入り、パンフを頂いて初めて城名の違いに気付きました。
資料館に入り、パンフを頂いて初めて城名の違いに気付きました。
これは、どっちかに統一して欲しいものです。
資料館は二本松の歴史を広く捉えたもので、特に近代に多くの芸術家を輩出した様で、その展示が主となっています。
ともかく霞ヶ城のパンフを頂いて館を後にします。
実はここはもう城内で、大手門のあった場所らしいのですが、今は開発が進んで、面影すらありません。
ともかく霞ヶ城のパンフを頂いて館を後にします。
実はここはもう城内で、大手門のあった場所らしいのですが、今は開発が進んで、面影すらありません。
城の遺構見学は北にひと山越えた、霞ヶ城公園が基地になります。
3.霞ヶ城公園
山越えで公園を目指しますが、またまた看板がありません。付近をグルグル回ってると、ビルの間から“城”らしきものが見えたので、その方向にクルマを走らせます。
路地を走りながら“櫓”の方向に走って行くと視界が開け、広い駐車場が現れました。
山越えで公園を目指しますが、またまた看板がありません。付近をグルグル回ってると、ビルの間から“城”らしきものが見えたので、その方向にクルマを走らせます。
路地を走りながら“櫓”の方向に走って行くと視界が開け、広い駐車場が現れました。
奥には新しく綺麗な城門と櫓、そして土塀に囲まれた郭があります。
『やっと着いた!』
4.二ノ丸郭
見えていたのは二ノ丸郭で、石段を登って復元の箕輪門から入ります。
見えていたのは二ノ丸郭で、石段を登って復元の箕輪門から入ります。
登り口に“二本松少年隊”の銅像があり、まだあどけない姿に胸が締め付けられる思いになります。
付櫓を見ながら二ノ丸に入って行きますが、石垣も櫓も門も、出来立ての様な綺麗さです。
清掃がしっかり行き届いてるという事でしょうが、いつも古い建物を見てる身には“新しすぎる違和感”はありますね。
二ノ丸は御殿のあった場所だけに、相当な広さがありますが、建物は無く、今はただの広場です。
奥に本格的な庭園が見えますが、後刻に行って見ます。

この城は山城の山麓を整備・拡張した城ですから、本丸は山上にあるものの、日常の生活や政庁機能は無く、すべて二ノ丸がその機能を果たしていた…という事ですね。
さて、本丸を目指して登りますが、五月晴れの好天に恵まれて気温も上がってきました。
道のりは険しそうなので、飲料水を補給してから登りましょう…と思って、売店か自販機を探しますが有りません。
周囲の建物(みな無人)やトイレを探しても結局無くて、一度城外に出て、街並みにある蕎麦屋の自販機でやっと補充ができました。
街に近い平山城で、しかも百名城でこうゆうのは初めてです。
何か自治体か観光協会の方針なのでしょうが…。

5.本丸へ
はるばる来たのだから、気を取り直して登ります。
登城路は当時の道と公園の遊歩道が混在していて、当時の姿が判りにくいのですが、山肌には階段状に土塁と削平地があります。
はるばる来たのだから、気を取り直して登ります。
登城路は当時の道と公園の遊歩道が混在していて、当時の姿が判りにくいのですが、山肌には階段状に土塁と削平地があります。
山のエリアは石垣は使われてなく、二本松氏の遺構が殆どなのでしょうね。
それでも、山頂が近付くと斜面に“土留め”状に石垣を貼った所があります。 石も古く、積み方も不均一ですから、丹羽氏以前のモノには違いないですね。
それでも、山頂が近付くと斜面に“土留め”状に石垣を貼った所があります。 石も古く、積み方も不均一ですから、丹羽氏以前のモノには違いないですね。

天守台石垣の石材全部新しい
6.本丸
ついに本丸の天守台の石垣が見えてきました。
ついに本丸の天守台の石垣が見えてきました。
嫌な予感はしていましたが、やはりデカイ。そして新しい…。
丹羽氏が三層天守に二基の櫓と門を連結した“連立天守”の天守台を積んだ…とは記録にある様ですが、こんなに大きく立派な天守台は身に過ぎるでしょう。
丹羽氏が三層天守に二基の櫓と門を連結した“連立天守”の天守台を積んだ…とは記録にある様ですが、こんなに大きく立派な天守台は身に過ぎるでしょう。

それに新しい。グルリ見渡したら、すべて伐り出したばかりの新品の石材が使われています。
天守台があったのは事実だから、石材もある筈で、失われてる石のみの補充にしないと“復元”にはならず、文化財としての価値はないでしょう。
傍に古く低い石垣が残っていましたが、これはちょっと酷すぎますね。
傍に古く低い石垣が残っていましたが、これはちょっと酷すぎますね。
天守台に登ってみると360°の展望が広がり、安達太良山が間近に見えて素晴らしい景色です。
天守台はやめて“観光展望台”とすべきですね。

安達太良山が綺麗に見えます
7.下城
下山して庭園に向かいます。
下山して庭園に向かいます。
山城の高地ですが用水を引いて来て、池をめぐらせ滝を配した見事な“大名庭園”が整備してあります。
雰囲気のある茶室もあり、のんびり回遊できます。
これは殆どが正統な復元なのでしょうね。
城の復元は何を目的にするか?…という事なんでしょうが、城めぐりをしてると、色んなスタイルに出会います。
“復興”“模擬”と呼ばれるモノは観光に立脚したのが多く、本来の“史実”はないがしろにされがちです。
“復興”“模擬”と呼ばれるモノは観光に立脚したのが多く、本来の“史実”はないがしろにされがちです。
それで良いと思う人達も居るのは確かですが、歴史遺産というものは先人の生きた証しです。
先人が何を思い、何を感じて判断したかは、その環境でないと感じられません。 個人としては百名城とはそんな場所であって欲しいと思います。
早めに会津に向かいます。
早めに会津に向かいます。

庭園は風情があり美しい