日本100名城 №22 八王子城 登城日 2013.05.11

所在地 東京都八王子市元八王子町
城郭構造 山城
築城年 1587年(天正15年) 安土・桃山時代
築城主 北条氏照
主な城主 北条氏照
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 石垣、曲輪、御主殿跡
文化財指定 国の史跡
城郭構造 山城
築城年 1587年(天正15年) 安土・桃山時代
築城主 北条氏照
主な城主 北条氏照
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 石垣、曲輪、御主殿跡
文化財指定 国の史跡
北条の城第二弾で八王子城を訪ねました。
八王子城は鉢形城主=北条氏邦の兄、北条氏照が築いた城で、“関東一の山城”と言われています。
鉢形城の堅固さにも驚いた訳ですが、さらに凄い“何か”を期待して登城します。
氏照が八王子城を築いたのは戦国末期の1587年で、北条氏滅亡の3年前でした。
氏照は北条氏の中でも軍事、政治に秀でた武将で、氏康、氏政、氏直の三代にわたる治世の中で、家中に重きをなす存在でした。
以前の居城は滝山城で、10㎞ほど北東の多摩川沿いにある堅固な平山城でしたが、1569年に武田信玄の2万の兵に攻められ、二ノ丸まで攻め込まれる苦汁を舐めています。
この事から氏照は、寡兵でも対抗できる“山城”への移転を決意したと言われています。
以前の居城は滝山城で、10㎞ほど北東の多摩川沿いにある堅固な平山城でしたが、1569年に武田信玄の2万の兵に攻められ、二ノ丸まで攻め込まれる苦汁を舐めています。
この事から氏照は、寡兵でも対抗できる“山城”への移転を決意したと言われています。
しかし八王子城も、竣工間もない1590年、豊臣秀吉の小田原征伐軍に攻められ、氏照以下の主力が小田原城に籠っていた事もあって、僅か半日で落城してしまいました。
攻城軍は北陸の前田利家、上杉景勝の連合軍であり、秀吉に鉢形城での消極戦法を叱責された両軍は、なりふり構わぬ見せしめ殲滅作戦に出て、籠っていた僅かな守備兵と農民・婦女子3千のうち2千が殺戮されたそうです。
攻城軍は北陸の前田利家、上杉景勝の連合軍であり、秀吉に鉢形城での消極戦法を叱責された両軍は、なりふり構わぬ見せしめ殲滅作戦に出て、籠っていた僅かな守備兵と農民・婦女子3千のうち2千が殺戮されたそうです。
戦後この城は廃城となり、大量殺戮の場として近付く者も居ない時期が長く続きました。
その為か、城の遺構はほぼ手付かずで遺り、近年の調査復元の助けとなっています。
その為か、城の遺構はほぼ手付かずで遺り、近年の調査復元の助けとなっています。
八王子城を歩く
1.アプローチ
八王子城は圏央道に近いので、クルマで行きます。
最寄のICは八王子西ですが、埼玉方面からのクルマは降りられないので、ひとつ手前の“あきるのIC”で降り、滝山街道~高尾街道を走ります。
昭和天皇陵近くの“元八王子”で東京霊園方向に右折し、“八王子城跡入口”交差点を左折して入って行きます。
さほど広い道ではありませんが、谷間の緩やかな登り道を少し走ると、八王子城の専用駐車場が右手にあります。
1.アプローチ
八王子城は圏央道に近いので、クルマで行きます。
最寄のICは八王子西ですが、埼玉方面からのクルマは降りられないので、ひとつ手前の“あきるのIC”で降り、滝山街道~高尾街道を走ります。
昭和天皇陵近くの“元八王子”で東京霊園方向に右折し、“八王子城跡入口”交差点を左折して入って行きます。
さほど広い道ではありませんが、谷間の緩やかな登り道を少し走ると、八王子城の専用駐車場が右手にあります。
2.根小屋エリア
広い駐車場を含むエリアは“根小屋”の地域で、狭い谷ながらも民家が集落をなしています。
広い駐車場を含むエリアは“根小屋”の地域で、狭い谷ながらも民家が集落をなしています。
その当時は武家屋敷街だったのでしょうか。(以前は大学があったそうです)
駐車場の隣に新しい奇抜な建物があります。
駐車場の隣に新しい奇抜な建物があります。
“国史跡八王子城跡ガイダンス施設” 5月20日オープンだそうです!
う~ん、一週間早かった…。
う~ん、一週間早かった…。
少し登ると現行の案内所があります。ボランティアガイドさんの詰め所も兼ねてる様で、割と賑わっています。
パンフは外にラックで置いてあり、自由に貰えます。
他にも城址の全体図や見どころがタイルに印刷したものが野外展示してあり、たくさんの情報を得られます。
無料貸し出しの杖(主に竹)がカゴにいっぱい入っているのが、この先の嶮しさを予感させますw
他にも城址の全体図や見どころがタイルに印刷したものが野外展示してあり、たくさんの情報を得られます。
無料貸し出しの杖(主に竹)がカゴにいっぱい入っているのが、この先の嶮しさを予感させますw
3.御主殿エリア
嶮しさに怖気づいた訳ではありませんが、すぐ隣の御主殿エリアから攻める事にします。
嶮しさに怖気づいた訳ではありませんが、すぐ隣の御主殿エリアから攻める事にします。
この谷間には谷川が流れていて、御主殿へは川の向こうへ渡ってアプローチします。
川沿いに降りて少し遡ると橋があって、この辺りから土塁の遺構が見えてきます。
橋を渡った所が虎口で、枡形形状が確認できますが、当時はここから川下に向けて大手道だったのでしょうね。
正規の大手道を御主殿に向かう道は谷の南の山裾を通ります。
正規の大手道を御主殿に向かう道は谷の南の山裾を通ります。
南側の山上からは丸見えなので、山上にはきっと防塁が巡ってるのでしょうね。

しばらく進むと前方に復元した石垣と木橋が見えて来ました。
その橋の向こうにはこれも立派な石垣と石段があります。
石塁を土台にした、川を跨ぐ木橋を渡って御殿に入るのでしょうが、立派な橋です。
石塁を土台にした、川を跨ぐ木橋を渡って御殿に入るのでしょうが、立派な橋です。
パンフには“曳き橋”となってますが、当時はそうだったのでしょうが、緊急時に“曳ける”代物ではなく、頑丈な固定橋です。
これは、見学者の安全を考えた措置なんでしょうね。
橋を渡った御殿側は若干の枡形となり、御殿の右手に登りの石段があります。
その東側には石塁が立っており、敵の目に触れずに昇降できる構造です。
石段を登ると冠木門があり、中には単面の広場があって、ここが“御主殿”の跡です。
石段を登ると冠木門があり、中には単面の広場があって、ここが“御主殿”の跡です。
軽く1000坪はあるでしょうか。
現在は発掘調査中につき、大半が立ち入り禁止ですが、南は土塁が取り巻いてて、その上からは橋と虎口が見下ろせます。
御主殿の西の端には、川端の降りる“搦め手道?”があります。
降りて見ると、そこには小さな滝があり、傍に櫓台のような土塁があります。
落城時に、城の婦女子がこの滝に身を投げたという言い伝えが有る様です。 落差4m程度の滝ですが、櫓台から落ちたとすれば8mはあるので、命を絶つ事は出来たでしょう。
供養の碑があったので、思わず合掌です。
落城時に、城の婦女子がこの滝に身を投げたという言い伝えが有る様です。 落差4m程度の滝ですが、櫓台から落ちたとすれば8mはあるので、命を絶つ事は出来たでしょう。
供養の碑があったので、思わず合掌です。
4.本丸へ
案内所に戻って、今度は山上の本丸を目指します。
登城路は幾つかある様ですが、案内所の裏手から登る道が一番緩くて、正規のルートになっている様だから、ここから登ります。
最初は順調だった登り道も、すぐに急坂に変わり、階段になります。
案内所に戻って、今度は山上の本丸を目指します。
登城路は幾つかある様ですが、案内所の裏手から登る道が一番緩くて、正規のルートになっている様だから、ここから登ります。
最初は順調だった登り道も、すぐに急坂に変わり、階段になります。
良くある“丸太調のコンクリート土留め”を用いたものですが、土が流れ出てて、歩きにくい。
やっと坂が緩くなり、削平地がある場所に着きました。
“金子曲輪”と呼ばれる最初の迎撃エリアで、休憩&水分補給です。
また登り始めると、今度は松の根が露出したダラダラ坂が続きます。
“金子曲輪”と呼ばれる最初の迎撃エリアで、休憩&水分補給です。
また登り始めると、今度は松の根が露出したダラダラ坂が続きます。
土の部分は小石混じりとなり、靴が滑って難儀します。
こりゃトレッキングシューズ必須ですね。
最後の九十九折れの坂を登ると、“馬回り道”という犬走り状の道に出ます。
ここはほぼ平坦で、視界も開けて、八王子市街と遠く都心部が見渡せる、絶景ポイントでした。
ここはほぼ平坦で、視界も開けて、八王子市街と遠く都心部が見渡せる、絶景ポイントでした。

5.本丸エリア
馬回り道から一段登ると、広い削平地があります。
中ノ曲輪と呼ばれる場所で、神社や近世の顕彰碑などが建っていますが、当時は籠城の為の建物があった場所でしょうね。
馬回り道から一段登ると、広い削平地があります。
中ノ曲輪と呼ばれる場所で、神社や近世の顕彰碑などが建っていますが、当時は籠城の為の建物があった場所でしょうね。
更に一段高い削平地が松木曲輪で、こちらは南向きの眺めの良い曲輪です。そこからもう一段登ると山頂曲輪になり、八王子城の“天守”の位置です。
もちろん登って見ましたが、30坪程度の削平地で、ポツンと小さな祠があるのみでした。今は木立で見通しも利きませんが、たぶん物見台だったのでしょうね。
もちろん登って見ましたが、30坪程度の削平地で、ポツンと小さな祠があるのみでした。今は木立で見通しも利きませんが、たぶん物見台だったのでしょうね。
松木曲輪に戻って、遅い昼食にします。
そういえば無性に空腹感で、用意して来たおにぎり2個ではとても癒せませんw
それだけハードな登城だったという事でしょう。
パンフでは本丸エリアから尾根を西へ向かうと“詰めの城”というのがあり、“天主”という標記や大堀切、竪堀などが見れそうなのですが、飲料水も底をつき、装備の不安もあるので、山上からは“勇気ある撤退”を決めました。
そういえば無性に空腹感で、用意して来たおにぎり2個ではとても癒せませんw
それだけハードな登城だったという事でしょう。
パンフでは本丸エリアから尾根を西へ向かうと“詰めの城”というのがあり、“天主”という標記や大堀切、竪堀などが見れそうなのですが、飲料水も底をつき、装備の不安もあるので、山上からは“勇気ある撤退”を決めました。
下山中も、たくさん登って行く人達とすれ違いますが、途中で休憩してる人達の方が多いかなw
本丸であまり人と遭わなかった事を思うと、途中で引き返す人の方が多い様です。
十分な装備と登り切る意志が要りますね。名城と言われる堅固な山城です。この山をナメてはいけません。
本丸であまり人と遭わなかった事を思うと、途中で引き返す人の方が多い様です。
十分な装備と登り切る意志が要りますね。名城と言われる堅固な山城です。この山をナメてはいけません。

6.再び根小屋エリア
下りの気楽さで、途中から別ルートを取って、御主殿近くのアシダ曲輪へ降ります。
そこから案内所のある近藤曲輪にかけては段々に郭が存在し、何体もの石仏が見られます。
重臣屋敷のエリアだと思いますが、信心深い戦国武将の側面を見る思いでした。
下りの気楽さで、途中から別ルートを取って、御主殿近くのアシダ曲輪へ降ります。
そこから案内所のある近藤曲輪にかけては段々に郭が存在し、何体もの石仏が見られます。
重臣屋敷のエリアだと思いますが、信心深い戦国武将の側面を見る思いでした。
7.氏照公墓所
最後に氏照公の墓所に参って帰ります。
氏照は小田原で切腹し、氏政と共に小田原に葬られた様ですが、本拠地の八王子にも墓石が建てられ、弔われています。たぶん、旧家臣の手によるものなのでしょうね。
最後に氏照公の墓所に参って帰ります。
氏照は小田原で切腹し、氏政と共に小田原に葬られた様ですが、本拠地の八王子にも墓石が建てられ、弔われています。たぶん、旧家臣の手によるものなのでしょうね。
墓所は案内所から300mほど下った“石屋さん”の角を左に入った突き当りにあります。
雑木林に覆われた尾根にあり、少し歩かされますが、参道自体は良く整備されています。
階段を登り詰めると、家臣団の墓石に囲まれて、ひときわ大きな古い墓石があり、すぐに判ります。
辺りの山中にも一面に古い墓石が点在してるので、菩提を弔う寺があったんでしょうね。
雑木林に覆われた尾根にあり、少し歩かされますが、参道自体は良く整備されています。
階段を登り詰めると、家臣団の墓石に囲まれて、ひときわ大きな古い墓石があり、すぐに判ります。
辺りの山中にも一面に古い墓石が点在してるので、菩提を弔う寺があったんでしょうね。

8.下城
大きな山城というのは、全貌を見るには骨が折れるものです。
八王子城は遺構が残っている希少な城跡ですから、今後も何度か訪れて見極めたいものです。
大きな山城というのは、全貌を見るには骨が折れるものです。
八王子城は遺構が残っている希少な城跡ですから、今後も何度か訪れて見極めたいものです。