日本100名城 №41 駿府城 登城日 2013.05.06

所在地 静岡県静岡市葵区駿府城公園1番1号
城郭構造 輪郭式平城
通称 府中城、静岡城
築城年 1585年(天正13年) 安土桃山時代
築城主 徳川家康
主な改修者 徳川家康
主な城主 徳川氏、中村氏、内藤氏(松平氏)
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 石垣、堀
文化財指定
城郭構造 輪郭式平城
通称 府中城、静岡城
築城年 1585年(天正13年) 安土桃山時代
築城主 徳川家康
主な改修者 徳川家康
主な城主 徳川氏、中村氏、内藤氏(松平氏)
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 石垣、堀
文化財指定
GWの終わり、任地に戻る道すがら、駿府城に寄って来ました。
駿府城の前身は14世紀に遡り、駿河守護になった今川氏が館を建てた事に始まります。
今川氏はここを拠点に、戦国大名として領地を拡げ、“海道一の弓取り”と評されます。
足利将軍に替わり京都を狙うまでに成長しますが、上落戦の“桶狭間”で躓いてからは凋落を続け、武田・徳川に攻められて滅亡します。
今川氏はここを拠点に、戦国大名として領地を拡げ、“海道一の弓取り”と評されます。
足利将軍に替わり京都を狙うまでに成長しますが、上落戦の“桶狭間”で躓いてからは凋落を続け、武田・徳川に攻められて滅亡します。
駿府を手に入れた武田もここを支配拠点のひとつとしますが、これも間もなく滅亡し、替わって徳川の領地となります。
家康は本拠を浜松から駿府に移し、これまでの館を大きく改造して天守を持つ近世城郭の“駿府城”に造り上げました。

北条征伐後、駿府は豊臣領となり、中村一氏が入りますが、徳川の世になると伯耆米子に移封され、隠居して“大御所”となった家康が入ります。
この時に家康は駿府城を“天下普請”で大改築し、三重の堀と七層天守を持つ大城郭に仕立てました。
家康は隠居とは名ばかりで、この城で“院政”を敷き、亡くなるまでの十年あまり、駿府城下は大いに賑わったそうです。
家康は隠居とは名ばかりで、この城で“院政”を敷き、亡くなるまでの十年あまり、駿府城下は大いに賑わったそうです。
その後に秀忠の二男の忠長が入りますが、忠長改易後は天領となり、城代を置いて明治維新まで管理させました。
明治29年、陸軍の連隊が駐屯する事になり、主要な建物はすべて破却され、中堀より内側はすべて更地になってしまいます。
明治29年、陸軍の連隊が駐屯する事になり、主要な建物はすべて破却され、中堀より内側はすべて更地になってしまいます。

駿府城を歩く
1.アプローチ
クルマでの訪問です。
新東名の新静岡ICを降りて、安倍街道を南進するとほぼ一本道ですが、駿府城を目的にするなら東名高速の方が近いです。
1.アプローチ
クルマでの訪問です。
新東名の新静岡ICを降りて、安倍街道を南進するとほぼ一本道ですが、駿府城を目的にするなら東名高速の方が近いです。
駿府城には駐車場がありませんから、県庁の前を過ぎたあたりでコインパーキングを探して停めます。
この辺りは市街の中心で、殆どがタワーパーキングだから、クルマがデカいと苦労します。

2.三ノ丸
駿府城は三本の堀を持つ輪郭式の平城です。
駿府城は三本の堀を持つ輪郭式の平城です。
ほほ方形の堀が三重に巡り、外堀の内側を三ノ丸、中堀の内側を二ノ丸、そして内堀の内側が本丸というシンプルな構造です。
外堀の一辺は700mほど有り、城域は約15万坪ほどになります。
外堀の一辺は700mほど有り、城域は約15万坪ほどになります。
外側の三ノ丸から見て行きますが、外堀は過半が縮小・消滅しており、北西と南の県庁付近に僅かに残るのみです。
しかし三ノ丸は官公庁や学校・病院などの公共の大きな施設に活用されており、城域を特定するのは簡単でした。

県庁の東に架かる橋で外堀を渡って入って行きます。
三ノ丸に入って100mほど行くと、もう中堀の端に出ます。
二ノ丸の東南の角で、堀越しに巽櫓が建っていて、接続して東御門があり、この二つは復元されていて、現在の駿府城のシンボルになっていますが、さすがに天下普請だけあって立派です。
三ノ丸に入って100mほど行くと、もう中堀の端に出ます。
二ノ丸の東南の角で、堀越しに巽櫓が建っていて、接続して東御門があり、この二つは復元されていて、現在の駿府城のシンボルになっていますが、さすがに天下普請だけあって立派です。
意外に思うのが堀幅と石垣の高さで、堀は外側を埋めて道路を拡幅してるかも知れませんが、石垣は他の天下普請より明らかにレベルが落ちます。

3.二ノ丸
東御門の木橋を渡り入城します。
外に高麗門、右に折れて渡り櫓門を持つ、江戸城のそれと何ら遜色のない立派な枡形門です。
櫓の内部は展示室になっていて、天守の模型などが展示されていました。
東御門の木橋を渡り入城します。
外に高麗門、右に折れて渡り櫓門を持つ、江戸城のそれと何ら遜色のない立派な枡形門です。
櫓の内部は展示室になっていて、天守の模型などが展示されていました。
中堀の内側は“駿府城公園”として管理されており、ほぼフラットな広い公園です。
西に向かって歩いて行くと二ノ丸御門の遺構があり、西南の角では新しく“坤櫓”の復元工事が行われています。
14年4月の竣工予定だから、完成すると南側がグッと締まりますね。

4.本丸
本丸はこの内側に聳えていた筈ですが、今となっては一面の平地です。 一部、南東の角だけは発掘されて、石垣の一部と堀が野外展示されていますから、範囲はだいたい掴めて妄想できます。
本丸には北西に天守があった様で、この天守がまた特大のモノで、高石垣の50m四方の天守台の真ん中に七層の天守が建ち、四隅には小天守と付櫓が建つ…中井正清の集大成とも言うべき城郭史上も特異な凝った複合天守だった様です。
残念ながら江戸中期に城下の火事で延焼し、再建はされませんでした。
天守跡は小公園の様になっていて、有名な左手に鷹を乗せた家康の一番カッコイイ銅像が建っています。
本丸はこの内側に聳えていた筈ですが、今となっては一面の平地です。 一部、南東の角だけは発掘されて、石垣の一部と堀が野外展示されていますから、範囲はだいたい掴めて妄想できます。
本丸には北西に天守があった様で、この天守がまた特大のモノで、高石垣の50m四方の天守台の真ん中に七層の天守が建ち、四隅には小天守と付櫓が建つ…中井正清の集大成とも言うべき城郭史上も特異な凝った複合天守だった様です。
残念ながら江戸中期に城下の火事で延焼し、再建はされませんでした。
天守跡は小公園の様になっていて、有名な左手に鷹を乗せた家康の一番カッコイイ銅像が建っています。

5.下城
堀幅や石垣の高さを見る限り、家康隠居城の駿府城は天下普請でも、名古屋や大坂の“強い城”とは一線を画した城だったのではないでしょうか?
先例を挙げれば“聚楽第”かな? 東海道で家康の権力の大きさを嫌と云うほど見せつける、そんな豪華な御殿だったのでは…。ふとそんな事を思いました。
堀幅や石垣の高さを見る限り、家康隠居城の駿府城は天下普請でも、名古屋や大坂の“強い城”とは一線を画した城だったのではないでしょうか?
先例を挙げれば“聚楽第”かな? 東海道で家康の権力の大きさを嫌と云うほど見せつける、そんな豪華な御殿だったのでは…。ふとそんな事を思いました。
しかし、今川氏はどうなったんでしょうね? 静岡、特に駿河の人達にとって、より愛着のあるのは今川氏だと思ってたんだけど、城内に“今川館跡”の看板はついに見つけられませんでした。

