日本100名城  №30  高遠城                  登城日 2013.04.27
 
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所在地    長野県伊那市高遠町東高遠城跡
城郭構造   平山城
通称      兜山城
築城年     ?
築城主     ?
主な改修者  武田信玄
主な城主   高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、
           鳥居氏、内藤氏
廃城年     1872年(明治5年年)
遺構       石垣、土塁、空堀、門
文化財指定  国の史跡
 
 
久しぶりの百名城です。
中央道で桜がまだ残る伊那路に高遠城を訪ねました。
 
 高遠城の出自は判っていませんが、戦国期には諏訪氏の一族“諏訪頼継”が支配していました。
頼継は諏訪本家の“諏訪頼重”とは仲が悪く、甲斐の武田晴信に協力して頼重を滅ぼしてしまいます。 しかし、武田の侵攻は諏訪に止まらず、結局は高遠城も攻め取られてしまいます。
武田は高遠城を伊那地方攻略の拠点とし、山本勘助に整備させて、城将には“秋山信友”を置いて、伊那を平定して行きます。 伊那の拠点になった高遠城には、新たに諏訪氏を継承した信玄の四男“諏訪勝頼”が入り、この地方を支配しました。

 
 勝頼が武田氏後継者として“躑躅ヶ崎”に戻ると、信玄の実弟の信廉が入りますが、“長篠の戦い”等で織田・徳川との劣勢が表面化すると、伊那の豪族に動揺が走った為、勝頼は自らの実弟“仁科盛信”を高遠城に置いて、鎮静を図ります。
 やがて織田・徳川に北条も加わった“武田殲滅戦”が始まります。 
伊那方面には織田信忠が5万の兵で殺到し、高遠を囲みます。 再三降伏勧告がされますが、盛信は3千の兵で果敢に戦い、壮絶な最期を遂げます。 この一戦が武田が見せた唯一の武田らしい抗戦であり、後世の武田の評価を大きく左右します。

 江戸時代になると高遠藩として京極氏・保科氏・鳥居氏が相次いで入りますが、1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入り、以後は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えています。
 
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桜の樹で埋まる堀底道
 
 
高遠城を歩く
1.アプローチ

 
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 帰省の途中なので、中央道でクルマでの訪問です。
伊那ICで降りたらR361を目指し、まっすぐ東進すれば15分ほどで高遠の町に着きます。 
町の中心にある小高い丘が高遠城址ですから、すぐに判ります。
 R152にぶつかったら右折し、すぐに“高遠城址”の看板が出ますから、左折で入って行きます。 その先が三叉路になり、右に行けば“歴史博物館”左に行けば“城址”です。 
どちらを先に見るかの選択ですが、今回は城址を選びます。
左折して少し狭くなった道をクネクネと登って行くと、広大な駐車場が現れます。 高遠城址は全国的な桜の名所ですから、オフシーズンには駐車場は有り余っています。
 
 
2.城址
 高遠城は平山城というカテゴリーに入りますが、城山自体が“なべ型”の平べったい山で、山上を空堀で区切って郭を造っています。 
見るからに戦国期の縄張りをほとんど改変せずに使ってる感じですね。
 
 郭は大きく6郭に分けてあり、駐車場になってる三ノ丸、一段上がって二ノ丸、そして本丸と、輪郭式に続きますが、本丸には付属する南郭、法憧院郭が連結し、川沿いに一段下がって勘助郭があります。
 それらを取り巻く山裾にも、防塁は築かれていた筈ですが、特に大手方面は宅地化が進み、よほど時間を掛けて踏査しないとその姿は浮かびません。
郭内で見るべきモノといえば、三の丸にある藩校“進徳館”、二ノ丸から本丸に至る“桜雲橋”と“問屋門”それに本丸内の“太鼓櫓”くらいか。
 
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 とにかく桜、桜、桜、桜、桜…。 花が終わって新葉が出始めた頃だというのに、桜の枝でまったく見通しが利きません。ここはもう完全に“花見公園”ですね。 その為の建物や仮設トイレが城内で一番目立ちます。
 
 
3.歴史博物館
 法憧院郭から出て、東に降りて行くと“歴史博物館”があります。 ここで情報収集してから帰ることにします。
玄関脇に“保科正之”の銅像がドン!と建っています。 やっぱりこの人は出るよな。

 
 保科正之は徳川秀忠の隠し子で、気位の高いバカ女“お江”に遠慮した秀忠が保科正光に押し付けます。 
正光はこれを大切に育て、当然家督を継がせて高遠藩主とする訳ですが、そうした秘密はやがて兄の家光や忠長の知るところとなり、対面した家光は正之を高遠3万石から山形20万石に加増転封させ、7年後には会津23万石に加増します。
 
 正之はこの恩義に報いる為、幕府の重鎮として働いて、数々の功績を遺し、“江戸期の三名君”とまで呼ばれますが、それは会津以降の事であり、25歳まで過ごした高遠が正之を顕彰するのは、ちょっと違う気がしますね。
 館内の展示は時代を網羅した総合博物館です。 高遠城関係では最後の“内藤家”に限られるのは致し方ないですね。

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“絵島”囲い屋敷
 
 別館になりますが、“絵島”囲い屋敷が復元されています。
長くなるので絵島については記述を省きますが、33歳から亡くなる61歳までの28年間も、窮屈な監視下で過ごした事は誠に気の毒です。
 スキャンダルが本当なら大したもんですが、たぶん見せしめの“冤罪”でしょうからね。
 
 
4.下城
 高遠城は残念ながら“花見公園”でした。
先人の遺産をどう活かして維持するか…自治体も頭の痛い所でしょうが、100名城になってる以上は城ファンも来るので、いい加減にして欲しいと思います。

 
 では、高遠の場合、城として整備したら何を“売り”にするかという事だと思うのですが、城が戦国の城なんだから、仁科盛信を目玉にした“武田の城”でイイんではないでしょうか。
 先述の通り、現在も武田家が武勇の家として語られるのは盛信のお陰です。 
豊臣家も石田三成や真田信繁が一矢報いたから陽の存在です。 逆に北条は氏邦が降伏して生き延び、今川は朝比奈が戦わなかったから、いつまでも陰を拭えません。
日本人の琴線に触れる生き方をした“仁科五郎盛信”…
誰かが本にして、大河ドラマにでもなればね。
 

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藩校“進徳館”