日本100名城 №23 小田原城 ① 登城日 2013.02.16

所在地 神奈川県小田原市城内6-1
城郭構造 平山城
通称 小峯城(小峰城)、小早川城
築城年 1417年(応永24年) 室町時代
築城主 大森 頼春
主な改修者 上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主 後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、土塁、堀
文化財指定 国の史跡
城郭構造 平山城
通称 小峯城(小峰城)、小早川城
築城年 1417年(応永24年) 室町時代
築城主 大森 頼春
主な改修者 上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主 後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、土塁、堀
文化財指定 国の史跡

小田原城復興天守
北条氏シリーズのトリで、小田原城に行って来ました。
関東の百名城では唯一、天守建築があるお城です
関東の百名城では唯一、天守建築があるお城です
小田原城の前身は平安末期に遡り、相模の国人土肥氏の一族の小早川氏の居館があったとされます。1416年の上杉禅秀の乱”で土肥氏が失脚すると、駿河の大森氏がこれを奪取して勢力基盤を置きます。
1500年頃、今川の客将で伊豆を支配していた北条早雲が攻め落として、以後北条五代にわたる120万石の本拠地として、南関東の中心となります。
1500年頃、今川の客将で伊豆を支配していた北条早雲が攻め落として、以後北条五代にわたる120万石の本拠地として、南関東の中心となります。
北条氏は順次城の拡張・強化を行ない、最後には総延長9㎞もの総構えを持つ“戦国一の巨城”を完成させました。
しかし1590年、豊臣秀吉は20万の大軍勢で押し寄せ、攻囲3ケ月、小田原城を開城に追い込みます。 戦後、北条の旧領は徳川家康に与えられ、江戸を本拠とした家康は大久保忠世に4万5千石で小田原を与えます。
忠世は大きすぎる城の総構えを廃し、山間の八幡山も棄てて、海に近い居館エリアに限って城を縄張りし、総石垣の近世城郭に造り替えました。
江戸期を通して小田原はほぼ大久保家が支配するのですが、何度かの大地震に遭い、建物や石垣の改修を余儀なくされています。直近では関東大震災で石垣が大きく崩壊し、その改修に手がついたのは戦後の事だそうです。
戦後、復興ブームに乗って小田原城も築城が始まります。
目標は“江戸初期”の姿でスタートし、天守、櫓、門の復元が進み、徐々に当時の姿に近付いています。
戦後、復興ブームに乗って小田原城も築城が始まります。
目標は“江戸初期”の姿でスタートし、天守、櫓、門の復元が進み、徐々に当時の姿に近付いています。
小田原城を歩く

1.アプローチ
小田原城は小田原駅の至近距離にあり、鉄路を使わない手はありません。
今回は新幹線の“こだま”で向かいました。
小田原駅を西口に出ると、駅のロータリーに“北条早雲”の大きな銅像が出迎えてくれます。
半信半疑で来たものの、“やっぱり北条氏”という事でひと安心です。
駅からは線路沿いに西に向かうと、すぐに小田原城天守が見えてきます。 こんな判りやすいランドマークはありませんね。
小田原城は小田原駅の至近距離にあり、鉄路を使わない手はありません。
今回は新幹線の“こだま”で向かいました。
小田原駅を西口に出ると、駅のロータリーに“北条早雲”の大きな銅像が出迎えてくれます。
半信半疑で来たものの、“やっぱり北条氏”という事でひと安心です。
駅からは線路沿いに西に向かうと、すぐに小田原城天守が見えてきます。 こんな判りやすいランドマークはありませんね。
2.登城
城の大手から入るには、どうやら東口に降りないといけない様です。 今回は北東の入口からまず本丸に入って行きます。
すぐに、本丸左下の広場で発掘調査が行われていました。人だかりが出来ているので、説明会をやっている様です。 ここは“御用米曲輪”…あとで覗いてみよう。
登り切ると天守の東側で、奥に本丸の広場が広がっています。 さすがに有名な城だけに、見学者は多いです。
城の大手から入るには、どうやら東口に降りないといけない様です。 今回は北東の入口からまず本丸に入って行きます。
すぐに、本丸左下の広場で発掘調査が行われていました。人だかりが出来ているので、説明会をやっている様です。 ここは“御用米曲輪”…あとで覗いてみよう。
登り切ると天守の東側で、奥に本丸の広場が広がっています。 さすがに有名な城だけに、見学者は多いです。
3.天守
ともかく、まず天守に眼が行きます。
ともかく、まず天守に眼が行きます。

三層四階ですが、間近に見るとかなり大きく感じます。
『なんじゃこれは!』 石垣に眼をやったとき、思わず声が出てしまいました。 天守一階の外壁面から石垣の天端石がはみ出して積まれており、石の分だけテラス形状になっているのです…。
城の石垣というのは、高さを稼ぐだけでなく、建物の重みを支える大切な機能があります。 建物の中心部の重みは礎石を通して石垣の中の土に掛かります。
『なんじゃこれは!』 石垣に眼をやったとき、思わず声が出てしまいました。 天守一階の外壁面から石垣の天端石がはみ出して積まれており、石の分だけテラス形状になっているのです…。
城の石垣というのは、高さを稼ぐだけでなく、建物の重みを支える大切な機能があります。 建物の中心部の重みは礎石を通して石垣の中の土に掛かります。
それは“土圧”となって石垣を外に押し出そうとします。
石垣は自重だけでは耐えられないから、建物の外側の重みを上から掛けてやり、その重圧は石垣に傾斜が有るから、中の土に向かいます。 城、特に天守はそうした圧力の絶妙なバランスの上に建っている繊細美の結晶だから美しいのです。

熊本城と比べてみると一目瞭然
タネ証しをすると、コンクリート天守は木造天守の3倍の重さがあると言われ、当然旧来の石垣では持ちません。
だから天守の下(石垣の中)には強固なコンクリートのケーソン(基礎ブロック)が造られて、土圧を外に向けない様にしてる筈です。
この城の場合、ケーソンを天守の外壁に合わせて造ったために、外観仕上げに石垣を置いた時に石が外にはみ出さざるを得なくなったのでしょう。
これは100名城では有り得ません。 他の名古屋、大坂、岡山、熊本なども基本は同じですが、そこは上手く造って、外観復元しています。
ともかく中に入って見ます。
入口がまた、バリアフリーのスロープになってて、本当にこうだったのかな? 石垣をよじ登った忍者がひと休みできるテラスといい、どこまでも優しい城です。
中に入り、受付でパンフを貰います。 受付のお姉さんが品の良い人で、少し気持ちが落ち着きますw 中は当然博物館ですが、展示物も良く、カテゴリー分け出来てて非常に見やすいです。これも合格!
最上階は展望台で、三浦半島、相模湾から伊豆、箱根の山々が見渡せ気分爽快です。
入口がまた、バリアフリーのスロープになってて、本当にこうだったのかな? 石垣をよじ登った忍者がひと休みできるテラスといい、どこまでも優しい城です。
中に入り、受付でパンフを貰います。 受付のお姉さんが品の良い人で、少し気持ちが落ち着きますw 中は当然博物館ですが、展示物も良く、カテゴリー分け出来てて非常に見やすいです。これも合格!
最上階は展望台で、三浦半島、相模湾から伊豆、箱根の山々が見渡せ気分爽快です。

天守からの展望 東
北側に廻ってみると…あれ? 線路をはさんで、放棄した八幡山の曲輪群が手の届く様な距離にあり、見下ろされてます。 もちろん鉄砲の射程距離です。
再度、展示の絵図を確認するもやっぱり放棄地です。
という事は、江戸期の小田原城って、城じゃないじゃん。
という事は、江戸期の小田原城って、城じゃないじゃん。

天守からの展望 北 あれっ!