日本100名城 №42 掛川城 登城日 2013.01.05

所在地 静岡県掛川市掛川1138-24
城郭構造 平山城
通称 懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
築城年 1480年頃(文明年間) 室町時代
築城主 朝比奈泰煕
主な改修者 山内一豊
主な城主 朝比奈氏、山内氏、太田氏他
廃城年 1871年(明治4年年)
遺構 二の丸御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀
文化財指定 国の重要文化財(二の丸御殿)
城郭構造 平山城
通称 懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
築城年 1480年頃(文明年間) 室町時代
築城主 朝比奈泰煕
主な改修者 山内一豊
主な城主 朝比奈氏、山内氏、太田氏他
廃城年 1871年(明治4年年)
遺構 二の丸御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀
文化財指定 国の重要文化財(二の丸御殿)
岡崎城に続いて掛川城にやって来ました。
東海道新幹線の東京~名古屋間で最もキレイに見える城で、長い事出張族をやってると自然と瞼に焼付いた城です。
ボコンと突き出た小山の上にある、小ぶりで優美な天守は、浮世絵風でもあり、温暖な遠州の田園風景とマッチして、まさになごみの風景です。
東海道新幹線の東京~名古屋間で最もキレイに見える城で、長い事出張族をやってると自然と瞼に焼付いた城です。
ボコンと突き出た小山の上にある、小ぶりで優美な天守は、浮世絵風でもあり、温暖な遠州の田園風景とマッチして、まさになごみの風景です。
掛川は東海道が通る交通の要地で、今川氏の重臣朝比奈氏が築城して領地としていました。
今川氏が滅亡する際には今川氏真がここに逃げ込み、徳川勢に包囲されるも落城せず、ついに氏真の身の安全を確約させて開城した堅城でもあります。
今川氏が滅亡する際には今川氏真がここに逃げ込み、徳川勢に包囲されるも落城せず、ついに氏真の身の安全を確約させて開城した堅城でもあります。
以後は徳川氏の持ち城として、対武田の前線の城となりますが、豊臣の時代になり、家康の関東移封でここにやって来たのが“山内一豊”でした。
一豊は城域を大幅に拡張し、石垣を積んで天守を上げ、掛川城を近世城郭に変貌させます。
一豊は城域を大幅に拡張し、石垣を積んで天守を上げ、掛川城を近世城郭に変貌させます。
現在残る遺構の殆どはこの時のものと言われています。
一豊が土佐に去った後は、譜代の大名が11家と頻繁に入れ替わり、最後は太田氏で明治維新を迎えます。
一豊が土佐に去った後は、譜代の大名が11家と頻繁に入れ替わり、最後は太田氏で明治維新を迎えます。

復元:大手門
掛川城を歩く
1.アプローチ
掛川は城を中心に発展した城下町だけに、城は街の中心部にあります。
東名掛川ICからのアプローチになりますが、ほぼ一本道といってイイでしょう。
1.アプローチ
掛川は城を中心に発展した城下町だけに、城は街の中心部にあります。
東名掛川ICからのアプローチになりますが、ほぼ一本道といってイイでしょう。
インターを降りた最初の信号を左折し、市街に向かって走り、東海道線の線路をくぐってひたすら直進して行き、“仁藤町”の信号交差点を過ぎた二つ目の交差点に城マークの入った駐車場看板があります。
看板に従って左折すると城郭風のモダンな立体駐車場があるので、そこに停めます。
駐車場を出るとすぐ左手が交差点になり、はす向かいに“復元大手門”が自然に建っているので、そこから入城します。
駐車場を出るとすぐ左手が交差点になり、はす向かいに“復元大手門”が自然に建っているので、そこから入城します。
2.城内へ
大手門は木造の建物のみの復元ですが、二階を持つ本格的な門で、内部には番所も復元されています。
大手門は木造の建物のみの復元ですが、二階を持つ本格的な門で、内部には番所も復元されています。
簡易的に土塀がありますが、当時は門前に堀があり、橋を渡って入城した様です。
すぐに内堀の役割を果たした“逆川”に出るので、川に沿って西へ進み、橋を渡るともうそこは三ノ丸になります。
ここには“大手二ノ門”が有りましたが、城下の寺院に山門として移築されていて、国の重文になっているそうです。
すぐに内堀の役割を果たした“逆川”に出るので、川に沿って西へ進み、橋を渡るともうそこは三ノ丸になります。
ここには“大手二ノ門”が有りましたが、城下の寺院に山門として移築されていて、国の重文になっているそうです。

3.二ノ丸
二ノ丸にはこの城一番の見どころ“二ノ丸御殿”が現存します。
二ノ丸にはこの城一番の見どころ“二ノ丸御殿”が現存します。
掛川城は1854年の“天明東海地震”で壊滅的な打撃を受け、天守ほか主要な建物は殆ど倒壊してしまいますが、二ノ丸御殿だけがすぐに再建され、現存しています。
御殿といっても藩の規模や用途が“政務所”だった事から、かなり質素な造りですが、当時の藩政の場がよく判り、必見です。
こちらも重文に指定されています。
二ノ丸の遺構としては他に三日月状の深い水堀があります。
本丸の土塁下という位置からして、朝比奈時代の堀をそのまま活用したのではないでしょうか。
二ノ丸の遺構としては他に三日月状の深い水堀があります。
本丸の土塁下という位置からして、朝比奈時代の堀をそのまま活用したのではないでしょうか。
4.本丸
左手の石段を登り、四脚の復元門をくぐって本丸に向かいます。
左手の石段を登り、四脚の復元門をくぐって本丸に向かいます。
本丸の壇上は今は広場になっていますが、当時は3棟の櫓を持つ、城の主郭だった様です。
今は南の端に“太鼓櫓”のみが現存しますが、これは三ノ丸からの移築だそうです。
残念ながら内部は見れません。
残念ながら内部は見れません。

5.天守
天守は本丸を構成する急な丘の頂上に、基壇の石垣を積んで建てられています。
天守は本丸を構成する急な丘の頂上に、基壇の石垣を積んで建てられています。
本丸からは急な石段を30mほど登って行く事になり、平山城の規定に入るのは天守だけですね。
戦後に復興天守がコンクリートで再建される中、初めて木造で建てられた“復元天守”です。
天守の考証にあたっては指図など無く、倒壊前の絵図を元にデザインした様ですが、山内一豊が高知城を建てる際に掛川城天守をコピーした記録が有る事から、現存高知城も参考にした様で、ほぼ復元と言えるでしょう。
天守の考証にあたっては指図など無く、倒壊前の絵図を元にデザインした様ですが、山内一豊が高知城を建てる際に掛川城天守をコピーした記録が有る事から、現存高知城も参考にした様で、ほぼ復元と言えるでしょう。
中は展示館になっていて、武具甲冑は量も多くて楽しめますが、城主がコロコロ変わった…という事情もあり、テーマがはっきりしない雑然感は免れませんね。
異彩を放っているのは“山内家寄贈”と書かれた品々がたくさん有って、掛川で功名を上げた山内家の掛川に対する愛着を見る様で嬉しくなりました。
外に出て天守の廻りを見てみます。
天守台の石垣は積み直されたものの様ですが、石自体が新しいもので、多少違和感はあります。
裏手に回ってびっくりしたのは、大きさのキレイに揃った石が谷積みで積まれている事で、これって現代工法ではないですか? これはいけません。

天守を守るボランティアの忍者 武器は全部手作りだそうです
6.下城
新幹線の車窓から見慣れた城を間近で見て、期待vs現実でいろんな思いが交錯します。
新幹線の車窓から見慣れた城を間近で見て、期待vs現実でいろんな思いが交錯します。
総じて言えば“期待通り”という事でしょうか。
細かい部分では齟齬もありますが、城を守るのは結局“人”です。 掛川城のスタッフは皆さん笑顔で親切に対応してくださり、気持ちよく城を後にできました。