日本100名城   №46  長篠城             登城日 2012.12.29
 
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所在地       愛知県新城市長篠字市場22-1
城郭構造     平城
通称       末広城、扇城
築城年      1508年(永正5年) 室町時代
築城主       菅沼元成
主な改修者    奥平信昌
主な城主      菅沼氏、奥平氏
廃城年       1576年(天正4年)
遺構         曲輪、土塁、空堀、石垣
文化財指定    国の史跡
 
 山中城に続いて長篠城にやって来ました。
 
“長篠の戦い”で知られる長篠城ですが、あれは長篠城を攻囲した武田軍と、救援に来た織田・徳川軍が2㎞ほど西の“設楽ヶ原”で激突した戦いであり、“設楽ヶ原の戦い”というのが正解です。
 その長篠城ですが、今川氏配下の菅沼氏が1508年に築城し、居城としたのが始まりです。
豊川に宇連川が合流する地点の浸食崖にある典型的な“崖端城”で、平地続きの北側を空堀と土塁で固めた連郭式の平城です。
 
 “桶狭間の戦い”で今川義元が憤死すると、菅沼氏は松平氏(徳川)の独立に従う事となりますが、今川氏が滅亡後は武田氏の侵攻が始まり、せめぎ合いの場となる長篠は両氏に翻弄され続けてしまいます。
   徳川領であった1575年、武田勝頼は1万5千の大軍でこの城を囲みます。 城将は奥平信昌が僅か500の兵でよく凌ぎながら援軍を待っていました。
   武田との直接対決を決意した織田信長は自ら出陣、徳川勢も含めて3万8千の兵で設楽ヶ原に展開します。
 
   結果は周知の通りで、兵力の多寡もありますが、長篠城の城兵がよく耐えて、武田軍を釘づけにした功績も大きく、この後の武田軍団崩壊に繋がったのは間違いありません。
 
 戦後、奥平貞昌が引き続きこの地を治めますが、長篠城は損傷が酷く、新城城を築いて廃城とされました。
また奥平貞昌は戦功により、家康の姫を娶ると共に松平姓を与えられ、奥平松平氏として維新まで続いて行きます。
 
 
 
長篠城を歩く
1.アプローチ

 山中城から新東名をひた走り、浜松いなさICからR257で山を越え、R151を豊川方面に向かうとすぐに長篠城があります。
   土の平城ですから、城の形は見えませんが、この城の名物男である“鳥居強右衛門”のフンドシ姿のどデカい看板がド~ンと目に入るので、とても判りやすい城です。
 
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2.郭群
 看板を左折して、少し下がりながら入って行けば自然に駐車場になります。 年末も押し迫ったこの日は貸切の様です。 
駐車場に縄張り図の看板があるので、位置を確認します。
 
   連郭式で、本丸に至るまでに郭が配されている訳ですが、外郭は簡易の城柵で守られてた様で、豊川側に大手郭、宇連川側に瓢郭があった様です。 
ここは今は完全に市街化してて、痕跡は探し様もありません。
   しかし地形上は外に向けて緩やかに登っており、柵一枚で守れる訳もありません。 
特に瓢郭の方は柵のすぐ外側に大通寺山という小高い丘があり、郭があっても上から狙い撃ちです。 
実態は敵が堀端に大挙して押し寄せるのを防ぐ緩衝柵で、柵内を便宜上そう呼んでたのでしょうね。
 
   その内側は土塁に守られた“巴城郭”が取り巻いています。
ここが駐車場になっているのですが、外側はわずかに土塁の痕跡が認められます。 
どうも平時はここのラインが外郭だった様ですね。
 
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巴城郭から見る本丸土塁
 
   そうすると、長篠城は一辺が200mほどの五角形の小さな城だった事が判ります。 
500の兵で守るんだから、そんなもんでしょうね。 
 巴城郭の内側は、空堀を持つ少し立派な土塁が巻いていて、“帯郭”と標記されています。 
その名の通り、奥行きはあまり有りません。 
 
 ここに案内所兼保存館が有るのですが、年末のこの日はすでに閉館されていました。
 ここは“火縄銃”の展示が良いらしくて、見逃したのは残念ですが、城址自体はあらゆる所に説明看板があるので、基本的な情報を持ってたらそう困る事はありません。      

 帯郭に繋がるように西側には“弾正郭”という堀を持つ独立した郭があります。
ここは郭内が民家になっているので、さすがに侵入は見合わせます。
ここまで見る限り、大軍を防ぎきれる“強さ”は一切ありませんね。 
特に山中城を見た後だけに、余計にその思いは強まります。
 
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本丸土塁の内側    かなり高い 
 
 
3.本丸
 いよいよ本丸に入りますが、さすがに本丸は高い土塁と空堀が取り巻いていて、適度な折れもある立派なモノです。 
 土塁は本丸内からも5m近く聳え、東の端には櫓台も見られますが、豊川沿いと弾正郭との間にはありません。 
弾正郭とは深い浸食谷で隔てられ、こちらからの侵入はまず無理ですけどね。
 
 本丸内はほぼ平地の屋敷地で、7~800坪くらいかな。南の端にはJR飯田線が走ってて、少し狭くなってるかも。
 
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4.野牛郭
 本丸から一段低くなった、突端にあるのが“野牛郭”です。巴城郭跡にある踏切を渡って降りて見ます。
民家か和風料理屋みたいな造りの廃屋があるだけですが、結構な広さがあり、川からの攻撃に備えたのでしょうね。
 
郭の突端から少し下がると、物見櫓跡の様な削平地があります。 
ここはもう岩場の断崖上で、合流する川の水面が迫ります。
 
 この辺りは川が狭まってる狭隘な場所なので、水量も水深もあり、日常の足として、ここから船を使っていた可能性が高いと思います。
鳥居強右衛門も夜陰に紛れてここから川に入り、泳いで脱出したのでしょうか。
 
 再び本丸に戻り、土塁上から攻城戦を思い描いてみました。弾正郭は占領された記述があるから、帯郭にも攻め込まれてたかも知れません。 
川の対岸からは城内は丸見えで、鉄砲の射程内…。つまり1万5千の兵に勝てる要素がありません。
 
 おそらく守備兵達は本丸に籠り、矢弾が飛び交う中、驚異的な精神力で土塁にへばりつき、攻撃に耐えてたのでしょうね。
守り切れたポイントは、城兵の士気が失われなかった事と、豊富にあった鉄砲のおかげでは無かったでしょうか。
 
 
5.下城
 遺構の少ない小さな城跡で、100名城と言える様な視覚に訴えるモノは正直ありません。
“長篠城攻防戦”という圧倒的戦力差での戦いの史実があり、この小城がその舞台で、最大限奮戦して、武田を苦しめ、勝頼の焦りを誘って、設楽ヶ原の判断ミスへと繫がった。
 家康がかつて三方ヶ原で追い駆け回され、最も恐れた山県昌景をはじめ有力な家臣の多くを失った武田氏は、この日を境に滅亡への坂を転げ落ちて行きます。
 
 もしもこの時勝頼が、飯田か高遠まで引く判断をしていたら、後日に上杉と毛利を糾合して、多方面から攻め上る戦略を持ててたら、後の歴史は違うモノになっていたでしょう。
小粒な中に、そうした歴史の転換要素がギッシリ詰まった魅力あふれる城です。