日本100名城 №40 山中城 登城日 2012.12.29

所在地 静岡県三島市山中新田字下ノ沢
城郭構造 山城
築城年 1560年前後(永禄年間)
築城主 北条氏康
主な改修者 北条氏政
主な城主 松田氏
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 曲輪、堀、土塁
文化財指定 国の史跡
城郭構造 山城
築城年 1560年前後(永禄年間)
築城主 北条氏康
主な改修者 北条氏政
主な城主 松田氏
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 曲輪、堀、土塁
文化財指定 国の史跡
年末の帰省に合わせて、登城しました。
山中城は秀吉の“小田原征伐”の際の激戦地として有名ですが、最近は地元の熱意で復元が進み、“北条流築城術”を直に見れる場所として有名ですね。
山中城は秀吉の“小田原征伐”の際の激戦地として有名ですが、最近は地元の熱意で復元が進み、“北条流築城術”を直に見れる場所として有名ですね。

山中城の成り立ちは1560年頃、箱根の西の東海道を固める城として、北条氏康が築城した事に始まります。
実際に戦いに活用されたのは“小田原征伐”が最初で最後で、兆候の出てきた頃から強化・改修が始まり、戦いに入った時にはまだ改修途中であったとも言われています。
実際に戦いに活用されたのは“小田原征伐”が最初で最後で、兆候の出てきた頃から強化・改修が始まり、戦いに入った時にはまだ改修途中であったとも言われています。
箱根の山を西に降りた三島側の中腹に、東海道を抱き込む様に縄張りされていますが、攻城戦は豊臣秀次率いる7万の兵の一斉攻撃で始まり、対する北条方4千の兵は必死に防戦するも衆寡敵せず、半日足らずで落城したそうです。
落城後は山間の地という事もあり、治政上の利用価値もなく、廃城、放棄された様です。
自然の山林に埋もれてた古城跡が蘇ったのは、1930年の国の史跡指定からで、開発から取り残されて、殆どの遺構が残された山中城は学術的な研究材料としても秀逸であり、1973年からは三島市の公園整備も始まって、今日の姿まで復活するに至っています。
山中城を歩く
1.アプローチ
年末の帰省だからクルマです。
小田原厚木道路と箱根新道で峠を越え、5分ほど下ると“山中新田”という小さな集落になり、その下側に公園の駐車場があります。
1.アプローチ
年末の帰省だからクルマです。
小田原厚木道路と箱根新道で峠を越え、5分ほど下ると“山中新田”という小さな集落になり、その下側に公園の駐車場があります。
駐車場は城に近い右手に1面と左手にも上下2面あり、停められない事態はあり得ない広さですが、案内所が左の上の段にあるので、ここに停めるのがベストです。

西側駐車場入り口
2.三ノ丸へ
まず国道1号線を西側に渡らなければなりません。
歩道橋はなく、押しボタンで信号を変えて横断歩道を渡ります。
まず国道1号線を西側に渡らなければなりません。
歩道橋はなく、押しボタンで信号を変えて横断歩道を渡ります。
横断歩道のすぐ上がブラインドのカーブになり、傾斜もあるので、トラックが結構な勢いで駆け下りて来ます。
『悪いなぁ…』と思いながらも、信号を変えて独りで渡ります。
『悪いなぁ…』と思いながらも、信号を変えて独りで渡ります。
西側には石畳の旧東海道があり、上り坂になりますが、もうそこは三ノ丸内です。
集落沿いにしばらく歩いて、左に折れて公園内に入って行きます。
道は堀底道の様で、右に三ノ丸の土塁が続き、左は低い土塁で、その向こうは山の斜面が西へ落ちています。
堀道はやがて広場となり、正面に二ノ丸土塁、左奥に西ノ丸土塁が見えます。
道は堀底道の様で、右に三ノ丸の土塁が続き、左は低い土塁で、その向こうは山の斜面が西へ落ちています。
堀道はやがて広場となり、正面に二ノ丸土塁、左奥に西ノ丸土塁が見えます。
広場の中央は大きな溜池になっていて、ここから各郭に登れる様になっていますが、時計廻りに西ノ丸から攻めてみます。

3.西ノ丸
西ノ丸へ向かう歩道は帯曲輪の様で、城の外側をグルリと巻いています。
内側に空堀があり、西ノ丸がその上に聳えていますが、その西にも“西櫓”と呼ばれる、小ぶりな土塁があります。
ここが“畝堀”“障子堀”という独特な堀底構造を見れる一番のスポットですが、それよりこの土塁群、すべて孤立してるんですね。
西ノ丸へ向かう歩道は帯曲輪の様で、城の外側をグルリと巻いています。
内側に空堀があり、西ノ丸がその上に聳えていますが、その西にも“西櫓”と呼ばれる、小ぶりな土塁があります。
ここが“畝堀”“障子堀”という独特な堀底構造を見れる一番のスポットですが、それよりこの土塁群、すべて孤立してるんですね。
ここを守る兵士の心中はいかばかりか…。


西ノ丸と西櫓間の障子堀もキレイ
4.二ノ丸、本丸
二ノ丸に戻ると、ここは梯格式の様に本丸にくっついた下段の郭になっています。
二ノ丸に戻ると、ここは梯格式の様に本丸にくっついた下段の郭になっています。
南ダレの傾斜地なので、兵舎より武者溜りの郭ですね。
本丸との間にも空堀が走り、上端に木橋が架かって繋がります。
本丸は南向きの三段構造で、上段が広い平坦地なので、本陣の建物があったのでしょう。
北端に物見台(天守?)の土塁があり、北には堀を隔てて“北ノ丸”を従えています。
中段はかなり狭く、何の用途に使ったのか不明です。
中段はかなり狭く、何の用途に使ったのか不明です。
下段はまた広めで、復元建物が建っています。
武器や糧食の貯蔵場所だったのかも。
本丸の東側は三ノ丸を通った東海道が峠に向かって登って行く場所で、城の搦め手ですが、こちらの構造がハッキリしないと、頼りなさを感じますね。

二ノ丸 武者溜り

5.岱崎出丸
再び1号線を渡り、岱崎出丸を目指します。
こちらは直前に構築された出丸と言われ、登ってくる東海道に沿って細長く尾根を削って造った出丸です。
高所から街道の敵を狙撃できる構造で、先端の土塁は10mほどの高さを持っていて、土塁の下は畝のある空堀で固めてあります。
再び1号線を渡り、岱崎出丸を目指します。
こちらは直前に構築された出丸と言われ、登ってくる東海道に沿って細長く尾根を削って造った出丸です。
高所から街道の敵を狙撃できる構造で、先端の土塁は10mほどの高さを持っていて、土塁の下は畝のある空堀で固めてあります。
しかし、ここも孤立してしまう出丸なんですね。
街道を登ってきて最初に当たる郭だけに激戦は必至で、豊臣方唯一の戦死大名“一柳直末”はここで討死しています。
見たことも無い7万の軍が登ってくるのを見た守備兵達は怖かったでしょうね…。

ゴルフ場みたいですねw

東海道に向けた高土塁
なかなか登れないだろな…

6.下城
戦いの様に思いを馳せながら、滞在2時間で城を後にします。
戦いの様に思いを馳せながら、滞在2時間で城を後にします。
北条流築城技術の粋と言われるだけに、いろんな造作が見られて勉強になり、復元してくれた三島市に感謝です。
城としてのレベルが高いのは判りますが、相手が悪かったというか、“半日落城”なのが事実です。
素人目に見ても、各郭同士が繋がる様な構造で外側にもう一重の防塁で全体をカバーし、その線を強固に固めれば…と思ってしまいます。
城としてのレベルが高いのは判りますが、相手が悪かったというか、“半日落城”なのが事実です。
素人目に見ても、各郭同士が繋がる様な構造で外側にもう一重の防塁で全体をカバーし、その線を強固に固めれば…と思ってしまいます。
築城途上…と言われる所以かも知れません…。
真の原因は、北条氏の主戦派の氏政・氏照が、本当にこの城で持ち堪えられると思っていたのかという事です。
戦力の小出しは当時から愚の骨頂だったし、半日の捨て石にしたとしたら、戦略ナシとしか思えません。
秀吉の目的が天下人の力の誇示なのは明らかなので、堂々と東海道からの正面攻撃も見えてます。
秀吉の目的が天下人の力の誇示なのは明らかなので、堂々と東海道からの正面攻撃も見えてます。
緒戦の華々しい勝利は必須なので、力任せの総攻撃も考えれば判ります。
せっかくの“天下の嶮”を味方に持ちながら、箱根西麓で味方に倍する大きなダメージを与える様な、ゲリラ的な戦い方は出来なかったのかな?
“三増峠”でも負けてるし、無理かな。
“三増峠”でも負けてるし、無理かな。
