日本100名城 №16 箕輪城 登城日 2012.11.18

所在地 群馬県高崎市箕郷町西明屋
城郭構造 梯郭式平山城
通称
築城年 1512年(永正9年) 室町時代
築城主 長野 業尚
主な改修者 武田氏、北条氏、井伊直政
主な城主 長野氏、内藤氏(武田氏城代)、北条氏、滝川一益、井伊直政
廃城年 1598年(慶長3年)
遺構 石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸
文化財指定 国の史跡
城郭構造 梯郭式平山城
通称
築城年 1512年(永正9年) 室町時代
築城主 長野 業尚
主な改修者 武田氏、北条氏、井伊直政
主な城主 長野氏、内藤氏(武田氏城代)、北条氏、滝川一益、井伊直政
廃城年 1598年(慶長3年)
遺構 石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸
文化財指定 国の史跡
秋も深まって木の葉が落ち、蛇や蜂も眠りにつきました。
いよいよ山城シーズン到来です♪
いよいよ山城シーズン到来です♪
群馬高崎の箕輪城に行ってきました。
榛名白川の河岸段丘を利用して、梯郭式に曲輪を配した大規模な平山城です。
榛名白川の河岸段丘を利用して、梯郭式に曲輪を配した大規模な平山城です。
箕輪城といえば長野業正。
関東では有名な武将ですが、全国的な知名度はイマイチですかね。
箕輪城は業正の祖父の業尚により築かれました。当時の“上野国”は“山内上杉家”の支配地で、その有力家臣が分散支配しており、長野氏もそのひとつでした。
箕輪城は業正の祖父の業尚により築かれました。当時の“上野国”は“山内上杉家”の支配地で、その有力家臣が分散支配しており、長野氏もそのひとつでした。
北条氏が勢力を拡げて、管領の上杉憲政が越後に逃げた後もその構図は変わらず、越後の上杉(長尾景虎)の支援を得ながら連合して北条氏と対峙していました。
業正の代になると、北条に加え、新たな敵が信濃から侵攻してきます。武田信玄…これは強敵、ヤバイです。
信玄にすれば、上野を抑える事で、後顧の憂いなく京を目指したかったのですが、そうはさせじと上野衆も頑張ります。
その頭目が業正で、信玄の豪族間の切り崩し工作にも負けず、12人居た娘達を各豪族に嫁がせて結束を深めます。
信玄は都合六度も侵攻して来ましたが、ついに業正が束ねる上野衆2万の混成軍を破る事は出来ませんでした。
信玄にすれば、上野を抑える事で、後顧の憂いなく京を目指したかったのですが、そうはさせじと上野衆も頑張ります。
その頭目が業正で、信玄の豪族間の切り崩し工作にも負けず、12人居た娘達を各豪族に嫁がせて結束を深めます。
信玄は都合六度も侵攻して来ましたが、ついに業正が束ねる上野衆2万の混成軍を破る事は出来ませんでした。
ちょうどその頃、箕輪城には客将として真田幸隆が滞在していました。
幸隆は北信濃の真田郷の小豪族でしたが、武田・村上の勢力に領地を追われ、上州に避難して業正に庇護されていました。
幸隆の願いは上杉の力を借りての領地回復でありましたが、憲政にもはやその力は無く、思い切って業正を裏切り、武田の家臣になって復帰する決断をし、夜陰に紛れて密かに脱出します。 それを知っていた業正は家臣を先回りさせていました。
驚愕する幸隆にその家臣は『殿より忘れ物を届ける様に言付かりました』…と言って幸隆の妻子を渡して、国境まで警護して行き、馬と荷駄を渡して見送ったそうです。
驚愕する幸隆にその家臣は『殿より忘れ物を届ける様に言付かりました』…と言って幸隆の妻子を渡して、国境まで警護して行き、馬と荷駄を渡して見送ったそうです。
そんな業正にも死期がやってきます。業正は枕元に跡継ぎで僅か14歳の業盛を呼び『死は伏せろ、葬式は無用、密かに菩提寺の庭に埋め捨てよ!』と遺言したそうです。
死後五年、やっと業正の死を知った信玄は、「おのれ業正!五年の長きにわたりこの信玄を謀りおって!!」…と怒り狂ったそうです。(たぶん…)
すぐに軍を催して攻め落とし、箕輪城は武田支配となります。
が、その信玄も、やっと叶った西上の途中でその寿命を使い果たしてしまいます。
信玄を亡くした武田氏もほどなく滅び、その間隙を衝いて鉢形城の北条氏邦が侵攻して、箕輪城は北条氏の支配となります。
しかしそれも束の間で、織田信長の命を受けた滝川一益により追い払われて、今度は織田氏が支配します。
本能寺で信長が謀殺されるや今度は北条が滝川を追い払い、氏邦の支配に戻りますが、その北条も豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円は徳川の領地で落ち着きます。
この様に、業正以降には目まぐるしく城主の替わった箕輪城ですが、家康は戦いの絶えなかったこの地に井伊直政(ひこにゃん)を封じて民心の安寧を図ります。
直政は城下の整備とともに箕輪城を近代城郭に作り替えますが、在地8年、高崎城に移封となって、箕輪城は城の役目を終えます。
とてつもなく長い前置きですが、数々のドラマを持つ城なれど、現在見る城はその殆どが井伊直政の作品なのです。

搦め手口の登城路 城址は森の中
箕輪城を歩く
1.アプローチ
ここへのアプローチは駅がないのでクルマです。関越道を北上し、前橋ICが直近です。
北西方向になるのですが、ランドマークが何も無いので、事前に調べてナビに頼るのがベストです。
私も適当に探して来たら、搦め手の方に着いてしまいました。 この城、河岸段丘を利用した城なのですが、大手は川に面してあります。 固定観念ではダメですねw
それでも搦め手側にも駐車場が用意されてて、難なく停める事ができました。
駐車場からはもう城址が見えてて、適度に森が拓かれた姿は、梯郭式平山城そのもののシルエットを映しています。
北西方向になるのですが、ランドマークが何も無いので、事前に調べてナビに頼るのがベストです。
私も適当に探して来たら、搦め手の方に着いてしまいました。 この城、河岸段丘を利用した城なのですが、大手は川に面してあります。 固定観念ではダメですねw
それでも搦め手側にも駐車場が用意されてて、難なく停める事ができました。
駐車場からはもう城址が見えてて、適度に森が拓かれた姿は、梯郭式平山城そのもののシルエットを映しています。

路傍の無名墓
2.登城
民家の横の細道を少し歩くと、道自体が土橋形状になり、水堀は失われてるものの、旧来の道であるのが判ります。
山裾の虎口(?)まで行くと、イラスト看板があり、城址の全貌が判ります。 山上は比較的平坦で、台地を空堀で仕切った連郭の様相でもありますね。
民家の横の細道を少し歩くと、道自体が土橋形状になり、水堀は失われてるものの、旧来の道であるのが判ります。
山裾の虎口(?)まで行くと、イラスト看板があり、城址の全貌が判ります。 山上は比較的平坦で、台地を空堀で仕切った連郭の様相でもありますね。
本丸を目指して舗装された道を登って行くと、二ノ丸広場です。 700坪くらいはあり、半分は梅林で半分は駐車場と休憩の東屋(自販機つき)が建っています。
クルマは無かったけど、小型車ならここまで登って来れますね。
ここで気付くのは、内側の周囲に土塁が無い事。
これが新しい造作の証拠ですね。
ここで気付くのは、内側の周囲に土塁が無い事。
これが新しい造作の証拠ですね。
3.本丸
先を急いで北の本丸に向かいますが、この間の空堀がメチャでかい! 幅30m×深さ15mくらいかな? 自然の谷が造られる地形じゃないので、掘ったんだなぁ…スゴイ。
東端が土橋になってるので進んで行くと、途中にパンフの無人スタンド発見! やっとパンフGETです。
先を急いで北の本丸に向かいますが、この間の空堀がメチャでかい! 幅30m×深さ15mくらいかな? 自然の谷が造られる地形じゃないので、掘ったんだなぁ…スゴイ。
東端が土橋になってるので進んで行くと、途中にパンフの無人スタンド発見! やっとパンフGETです。

本丸跡
本丸に入ると、あれっ? 土塁が巻いてますw
広さは優に1000坪はありそうな、真っ平らな広場ですから、御殿の跡かな?(当たり前かw)
本丸の北にも“御前郭”という郭があり、何やら建物が見えるから行ってみます。 こちらを隔てているのは標準サイズの空堀です。
広さは優に1000坪はありそうな、真っ平らな広場ですから、御殿の跡かな?(当たり前かw)
本丸の北にも“御前郭”という郭があり、何やら建物が見えるから行ってみます。 こちらを隔てているのは標準サイズの空堀です。
近づいてみると、ここに有名な“箕輪城跡”の石碑が建っているのですね。 隣の屋根付きの建物は井戸でした。 この井戸、因縁めいた伝説が残ってて、発掘したら底から“墓石”が幾つも発見されたのだそうです。
信玄が業正の墓石を捨てた とか 隠れてた籠城兵に投げ入れて殺したとか… 真実は定かではありません。
4.堀底へ
御前郭の周りも見事な空堀が巡っています。 堀底に降りる道が造ってあるので、誘われる様に降りて見ます。
堀底から見上げると、土塁は高く、壁も急で、取りつくシマの無い感じですね。 U字の断面で、堀底の幅も広くなだらかだから、通路兼用なのでしょうね。
堀をそのまま歩いて行くと、北西の“稲荷郭”に出ました。
堀底から見上げると、土塁は高く、壁も急で、取りつくシマの無い感じですね。 U字の断面で、堀底の幅も広くなだらかだから、通路兼用なのでしょうね。
堀をそのまま歩いて行くと、北西の“稲荷郭”に出ました。

長野氏の供養塔
この郭はまだ藪の中で、今後の整備なんでしょうが、かまわず登ってみると“供養塔”を発見。文字が判読できないほど古いながら長野氏三代の慰霊廟の様です… しばし合掌。
この郭の下には広い“新郭”があり、その外が外堀になっています。もちろん現存はしませんが…。
この郭の下には広い“新郭”があり、その外が外堀になっています。もちろん現存はしませんが…。
余談ながら、長野氏滅亡の戦いは武田勝頼の初陣であり、勝頼が匹夫の勇でこの辺りに攻め込み、長野の豪の者にあやうく首を取られそうになったが、鬼美濃に助けられたという逸話もあります。
堀底に戻り、逆方向に南下して見ます。
延々と続く巨きな空堀、現代の重機を使っても1年以上掛かるんじゃないかなぁ…。
二ノ丸横を過ぎると土橋になってて、一旦郭上に上がります。 斜面に生えてる“ひっつき草”に難渋しながら上がってみると、今度は東の大手方向に向けて巨大な竪堀が走ります。底形状から、浸食谷ではない、堀ったんだよなぁ…。
素人目には、自然の谷間にしか見えませんw
5.大手へ
堀に添って大手に降りて行きます。
三の丸(ただの広場)を過ぎ、“鍛冶郭”に降りると直政時代の若干の石垣も確認できます。
鍛冶郭からは道が急になり、一気に大手の“虎稲門跡”に降ります。
構造上、どう考えてもこっちが搦め手だよなぁ…と思うのですが、長野時代以降の大改造がそう見せてるのかなぁ?
名前だけは馴染みのある長野時代を踏襲して…とか考えます。
だいぶ森が掃われて概要が見えてますが、北西や南側はまだ森と藪の中で、全貌が見えるのは少し先ですね。
特に南側はひな壇状に郭が連なり、城下は南にあった様ですから、登城口の名前は変わるかも知れませんね。
三の丸(ただの広場)を過ぎ、“鍛冶郭”に降りると直政時代の若干の石垣も確認できます。
鍛冶郭からは道が急になり、一気に大手の“虎稲門跡”に降ります。
構造上、どう考えてもこっちが搦め手だよなぁ…と思うのですが、長野時代以降の大改造がそう見せてるのかなぁ?
名前だけは馴染みのある長野時代を踏襲して…とか考えます。
だいぶ森が掃われて概要が見えてますが、北西や南側はまだ森と藪の中で、全貌が見えるのは少し先ですね。
特に南側はひな壇状に郭が連なり、城下は南にあった様ですから、登城口の名前は変わるかも知れませんね。