日本100名城 №32 春日山城 登城日 2012.10.28

所在地 新潟県上越市中屋敷字春日山
城郭構造 連郭式山城
通称 蜂ヶ峰城
築城年 南北朝時代
築城主 上杉氏
主な改修者 上杉房定、長尾為景
主な城主 長尾氏、上杉氏、堀氏
廃城年 1607年(慶長12年)
遺構 土塁、空堀
文化財指定 国の史跡
城郭構造 連郭式山城
通称 蜂ヶ峰城
築城年 南北朝時代
築城主 上杉氏
主な改修者 上杉房定、長尾為景
主な城主 長尾氏、上杉氏、堀氏
廃城年 1607年(慶長12年)
遺構 土塁、空堀
文化財指定 国の史跡
北信の“湯田中温泉”で疲れを癒して、本日は春日山城一本です。
言わずと知れた上杉謙信の本拠地ですが、あいにくの小雨まじりの強風が吹く悪条件の中、強行登城しました。
言わずと知れた上杉謙信の本拠地ですが、あいにくの小雨まじりの強風が吹く悪条件の中、強行登城しました。

ガイドマップ
春日山城の成り立ちは、南北朝時代に越後守護職だった上杉氏が、居館の詰め城として砦を築いた事に始まりますが、1507年、守護代の長尾為景がこれを修築し居城としました。
以後、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝と4代にわたり越後長尾氏の本拠地となった城です。
以後、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝と4代にわたり越後長尾氏の本拠地となった城です。
直江津を見下ろす春日山の山頂に居館が築かれ、山裾までの全山に一門、家臣の屋敷が郭を形成する、“全山要塞”の戦国有数の大大名らしい、大規模な山城です。
豊臣期、上杉家の会津転封により45万石で入って来た堀秀治は、平時の山城の不便さを嫌い、直江津港近くに“福島城”を新造し、春日山城は廃城となります。
春日山城を歩く
1.アプローチ
長野から上信越道で越後に入ります。
妙高山系の雄大な景色に“川中島へ向かう謙信の行軍”などに思いを馳せながら、上越高田ICまで走って下に降ります。
降りて2つ目の信号“中田原南”を左折し、まっすぐ5分あまり走り、北陸道をくぐると間もなく、“春日山城入口”という判りやすい交差点なので、迷わず左折w
そのまま真っすぐに登城口“春日山神社”の駐車場に行けます。
途中の右手に“埋蔵物文化センター”があるが、天候も下り坂なので、登城優先で先に進みます。
駐車場に着きましたが、“案内所”は少し離れた場所にあるのを思い出し、Uターンして向かいます。
2.春日山城史跡広場
正式名はそう言いますが、2キロほど下った場所に公園があり、“春日山城跡ものがたり館”という案内所があります。
正式名はそう言いますが、2キロほど下った場所に公園があり、“春日山城跡ものがたり館”という案内所があります。

史跡広場にある堀と土塁
クルマを停めると、辺りは復元された水堀と土塁がめぐり、こんな外側まで城域があったのか…と唖然としましたが、後で聞いた話によれば、堀秀治が造った“根古屋”エリアの様です。
“ものがたり館”でパンフを貰い、若干の展示品を見てると、品の良い“お姉さん(元)”が現れて、紹介ビデオを点けてくれました。訪問者が少ないから、受注生産ですね。
3.登城
再び神社の駐車場に戻り、長い石段を登って参拝します。
再び神社の駐車場に戻り、長い石段を登って参拝します。
境内に登り着くと、上杉家の武将隊が出迎えてくれます。
頭巾の謙信公はすでに女性観光客に囲まれていましたが、近くに居た派手な武将が声を掛けてきました。『どなたでござるか?』と問えば、『拙者、柿崎景家と申しまする!』と元気がイイ。
頭巾の謙信公はすでに女性観光客に囲まれていましたが、近くに居た派手な武将が声を掛けてきました。『どなたでござるか?』と問えば、『拙者、柿崎景家と申しまする!』と元気がイイ。
柴田勝家に勝手に馬を売って𠮟られた武将ですね(^^;
とりあえず社殿に手を合わせ、登城の無事を祈ってから本丸目指して登り始めます。

神社の右手に杉木立に覆われた路があり、風を避けられそうなので、ここから登ります。
春日山の東の裾を緩く登りながら進みますが、杉林の中にも、郭の削平地が上下に段々に連なっています。
当時は兵舎が立ち並ぶエリアだったのでしょうか?
春日山の東の裾を緩く登りながら進みますが、杉林の中にも、郭の削平地が上下に段々に連なっています。
当時は兵舎が立ち並ぶエリアだったのでしょうか?
しばらくすると、杉木立は雑木林に変わり、道も尾根道の急坂になって、ジグザグに登ります。
“登山が大変だ”という記事をコメントよく見たので、重装備で来たのは正解でしたw
そろそろ休憩…と思ってきた頃、虎口っぽい土塁があって、300坪ほどの若干広めの削平地が現れました。石標には“直江兼続邸跡”とあります。
兼続は景勝の時代には絶対的№2として権勢を振るいますが、元の直江家は重臣のひとりに過ぎないから、この程度の敷地なのかな。
その上の2区画もどうやら“兼続邸跡”の様で、活躍に応じて敷地も加増された様ですね。
その上の2区画もどうやら“兼続邸跡”の様で、活躍に応じて敷地も加増された様ですね。
“兼続邸跡”を過ぎると登りは緩くなり、腰曲輪の形状になって、もう本丸エリアに入って来ます。 まず現れたのが謙信が籠った“毘沙門堂”。再建でしょうが、比較的新しい1坪ほどのお堂が有ります。
洞穴ではなかったですねw
4.本丸
ここから更に一段高くなっているのが“本丸”で、ほぼ同じ高さで少し狭い郭が隣接し、土橋で繋がっています。
ここから更に一段高くなっているのが“本丸”で、ほぼ同じ高さで少し狭い郭が隣接し、土橋で繋がっています。
こちらは“天守台”と表示されています。館の機能と物見の機能の使い分けでしょうか。
地面はほぼフラットですから、実際に館の建物があったんでしょうね。
しかし、山頂の見通しと風遠しの良い場所なのは松の木の育ち方を見れば一目瞭然です。
少し下がった所に二ノ丸があるから、住居はそちらだったかも知れませんね。
本丸からは頚城平野から日本海まで一望でき、今まで訪れた城の中では最高の眺望が広がります。
少し下がった所に二ノ丸があるから、住居はそちらだったかも知れませんね。
本丸からは頚城平野から日本海まで一望でき、今まで訪れた城の中では最高の眺望が広がります。

本丸跡 最高の眺望です
いつしか風雨も収まってて、謙信公が『そなたは純粋な城好きのようじゃから、ワシの作品をしっかり見て行け』と言ってくれてる様に解釈しました。
5.三ノ丸
本丸を南の尾根に下ると三ノ丸エリアになり、こちらにも段々と郭が続きます。
一番上にあるのが“上杉景勝屋敷跡”で、本丸に近い広い敷地を与えられています。その隣にはさっきの柿崎景家の屋敷跡で、こちらも広大です。
本丸を南の尾根に下ると三ノ丸エリアになり、こちらにも段々と郭が続きます。
一番上にあるのが“上杉景勝屋敷跡”で、本丸に近い広い敷地を与えられています。その隣にはさっきの柿崎景家の屋敷跡で、こちらも広大です。
この方向は当時の大手道だったらしく、有力家臣の屋敷が続きます。 “景勝屋敷跡”の下の段がなんと“景虎屋敷跡”。
まだ同居してた頃は、景勝屋敷から鉄砲の弾が飛んできたそうです。 そりゃ“御舘”に逃げるしかありません。
6.再び春日山神社
三ノ丸を下ると、現代の広い道があり、神社の界隈に出ます。ここに有名な謙信公の銅像が有るのですね。
銅像前の広場には、茶店が数軒並んでいるので、遅めの昼食に蕎麦をいただきまいた。
ここでも観光客が集まるので、武将隊がサービスしています。ある完全装備の甲冑武者がトイレに入って行ったので、興味深く見てたら、僅か1分弱で出てきましたw
三ノ丸を下ると、現代の広い道があり、神社の界隈に出ます。ここに有名な謙信公の銅像が有るのですね。
銅像前の広場には、茶店が数軒並んでいるので、遅めの昼食に蕎麦をいただきまいた。
ここでも観光客が集まるので、武将隊がサービスしています。ある完全装備の甲冑武者がトイレに入って行ったので、興味深く見てたら、僅か1分弱で出てきましたw
7.下城
予想はしていましたが、大規模な山城です。
今日歩いたエリアは10%くらいはあるかな?…って感じ。
山城でも、山上に生活拠点のある城はこの時代にはもう珍しい… 平地に簡単な居館で住んだ武田信玄とは悉く対照的ですよね。
予想はしていましたが、大規模な山城です。
今日歩いたエリアは10%くらいはあるかな?…って感じ。
山城でも、山上に生活拠点のある城はこの時代にはもう珍しい… 平地に簡単な居館で住んだ武田信玄とは悉く対照的ですよね。
不便な事ばかりだと思うのですが、謙信はそんな事は百も承知で、日々不便を味わう事で得られる便利…が目的ではなかったのかな?
上杉の兵は山地での動きが迅速とか、小荷駄隊の峠道の通過は日本一とか…そんな記述を見た事はありませんが、日々の生活の中で鍛えられるモノは有ったに違いありません。
最強を誇り、関東を蹂躙し、信長が畏怖した上杉勢も、謙信が死去した後は精彩を欠いて行きます。
柴田勝家に押し込められ、伊達はおろかヘタレの最上義光にすら苦戦してしまいます。
戊辰戦争の頃になるともう戦国の雄の誇りすら無くなってしまったかの体たらくです。
謙信が率いた“戦国最強軍団”の力の源とは? 家臣が見たカリスマ謙信の魅力とは? 謎は深まり、広がって行くばかりです。
戊辰戦争の頃になるともう戦国の雄の誇りすら無くなってしまったかの体たらくです。
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前泊の湯田中温泉 いいお湯でした