日本100名城   №26  松代城                登城日 2012.10.27
 
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所在地     長野県長野市松代町松代44
城郭構造    輪郭式平城
通称       海津城
築城年      1560年(永禄3年)戦国時代
築城主      武田信玄
主な改修者   田丸直昌、森忠政
主な城主    武田氏、森氏、真田氏
廃城年      1873年(明治6年年)
遺構        石垣、土塁、堀
文化財指定   国の史跡
 
モヤモヤ感を持って、松代城にやって来ました。
 
 松代城の前身は“海津城”であり、正確な築城経緯は判っていませんが、1559年、武田信玄が川中島での上杉に対する拠点として整備した事から、記録に登場します。
  縄張りは山本勘助といわれ、当初は小山田虎満が城代で詰めましたが、後に高坂昌信に替わっています。
上杉との戦いでは常に戦略拠点として機能し、戦局を優位に進めた結果、川中島は武田の領地として落ち着きます。
 
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かつての水城の雰囲気を残す西側の堀と土塁
 
 
  高坂昌信は引き続き在城し、周辺地域を治めました。
武田氏が滅びると、織田の森長可の領地となりますが、“本能寺の変”が起こると長可は美濃に脱出し、変わって上杉景勝が領します。
景勝が会津に国替えになると、田丸直昌が配されています。
 
  江戸時代になると3年単位で領主が替わり、まず転封してきたのはまた森家(忠政)で、この時に城名を海津から“待城”と変えます。  
 次には松平忠輝の領地となり、忠輝がまた“松城”と改名し今に至ります。
その後も越前松平氏→酒井氏と続き、1622年には真田信之が上田から移動して、維新まで10代にわたりこの地を治めます。

 
  松代城の遺構については、千曲川の流れが遠のいたり、市街化が進んだりで主郭部を遺して変化していますが、復元図を見る限りは武田色を強く感じる構造です。
長居する大名がおらず、定着した真田氏は武田系だった事で、海津城のコンセプトが踏襲されたのではないかと思います。
 
 
海津城を歩く
1.アプローチ

 上田からのクルマ移動です。
上信越道の長野ICを降りた目の前ですが、そう目立つ城でもないので、ナビ設定は必須です。
  駐車場は大手側の観光施設にも停められますが、松代城の専用駐車場は搦め手にあるので、そちらを利用します。
インターを左に降りて、すぐにR403の交差点に当たると『ようこそ松代→』の大きな看板があり、右折して間もなく『松代城北P』の公共施設看板が道の上に現れます。
 
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復元:“北不開門”
 
 
2.登城
 駐車場から見えるお城は少し距離があり、畑の向こうに水堀らしきものが見え、低い土塁と復元門が見えています。
搦め手門は土橋を渡って城内に入ります。
ここはすでに二ノ丸の敷地ですが、門は無く、土塁も1m程度しか無いので、当時のままの復元はまだなされていない様です。 二ノ丸は本丸を囲む輪郭形式ですが、さほどの広さは無く、すぐに本丸の石垣が迫ります。
堀は無く、“北不開門”(開いてるけど)から本丸に入ります。
 
 
3.本丸
 門からは段差ナシで本丸で、段差が取れないこの辺は、水辺の平城の宿命ですね。
中は60m四方ほどの砂利敷きの広場で、建物はありません。
  四隅に櫓台があり、一番大きい北西の台に天守相当の櫓が有ったものと思われます。
自然石の野面積みで、時代を感じるので、たぶん海津城の頃からのものでしょう。
この台には木の階段が設置されてて、登る事ができます。

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海津城の頃からの天守台  天守は造られなかった
 
 登ってみると北側の情景がよく判りますが、千曲川の流路が離れた現在、こっちの備えは細い堀一筋と低い土塁のみで、ひときわ頼りなく見えます。
西の方向1.5㌔ほどにある山が“妻女山”で、これでは…丸見えですね…。
本丸内を見下ろすと、何とも手狭で、この狭い広場に居館があったのかなぁ? 後に外に造ってはいますが。
 
 
4.城下へ
 南側中央の太鼓門、引き橋門を出ると二ノ丸の南側です。この門は小さいながら枡形になっていて(本丸が増々狭くなるよ)、太鼓門は櫓門でした。
北側を除く三面は水堀の内堀になっていて、引き橋門には木橋が架かっています。
二ノ丸も南側は広く、兵の待機場所としては十分でしょう。
外部とは土塁で仕切られていた様で、それを示す低い土盛りが続いています。
この外はかつては広い水堀が広がっていた様で、大手には二重に三日月堀と馬出しがあったそうです。
 
 
 5.城下
 城を後にし、線路を越えると真田公園。最後の邸宅や文武学校、宝物館などがあります。
まずは“真田邸”に入って見ます。
  この邸宅は維新前に江戸の家族が帰国できる事になり、急遽建てたものだそうですが、それだけ手狭だったのでしょうね。個人の邸宅にすれば立派なものですが、10万石の大名には質素な感じです。

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真田邸玄関
 
 次は文武学校に入ります。
ここは“藩校”で、家臣の子弟が人を磨いた場所ですが、当時の造りを良く残してて、建物を見るだけでも価値があります。
  ちょうど槍術の稽古に子供達が汗を流しています。隣の弓道場でも女性が2人稽古してて、凛とした空気が流れていました。
  この界隈は特に、路地や武家屋敷の土塀に“城下町”の風情が良く残っていて、あまり観光にばかり注力し過ぎず、黙々と伝統を継承する市民の姿に感銘を受けました。
 
 
6.真田宝物館
 真田の博物館らしく、ここでは歴代当主の武具、衣服、調度などが所狭しと展示されています。 昌幸公の甲冑もありましたが、“復元”の様でした。

 
  話が逸れますが、ここに知る人ぞ知る“地黄八幡”の旗指物がある…というのを聞いた事があるので、ずっと探していましたが、見つけられませんでした。
一通り見学した後のロビーでは、甲冑の試着サービスもあります。
 
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7.下城
 夕暮れ迫る松代の城と町をあとにします。
敢えて、小さな地味な城でした。 
  10万石といえば、小田原、福山、津山、宇和島、弘前…といったレベルです。
徳川に三度も楯突つき、悉く脚光を浴びた真田家。 “敵の世”の中で生き抜くには、“癇に障らない生き方”が真田の家訓になったのでは無いでしょうか。

  真田家中に陰陽をつけるとすれば、陽を浴びて後世に名を遺した昌幸、信繁。 陰を一身に背負った信之という言い方が出来ると思います。その信之も楽隠居はできず、子に先立たれ、孫の跡目争いに心を痛め、90過ぎまで頑張ります。
そして遺したのが松代の城と領民です。

  松代からはその後、儒学者の佐久間象山や“硫黄島”の栗林忠道、童謡の作曲家として草川信、貝沼實などが出ました。
 真田氏の心が今に残っているとしたら、上田城でコスプレしてはしゃぐお兄ちゃん達にではなく、文武学校で槍術に汗を流す少年達だと、しみじみ思います。