日本100名城 №27 上田城 登城日 2012.10.27

所在地 長野県上田市二の丸
城郭構造 梯郭式平城
通称 尼ヶ淵城 真田城
築城年 1583年(天正11年)安土桃山時代
築城主 真田昌幸
主な改修者 仙石忠政
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
文化財指定 長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓) 、国の史跡
城郭構造 梯郭式平城
通称 尼ヶ淵城 真田城
築城年 1583年(天正11年)安土桃山時代
築城主 真田昌幸
主な改修者 仙石忠政
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
文化財指定 長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓) 、国の史跡
小諸から続いて、来たくはなかったが上田に移動します。
上田城は千曲川の段丘に造られた平城です。
城歴は比較的新しく、戦国末期の1583年に真田昌幸によって新規に築城されました。
城歴は比較的新しく、戦国末期の1583年に真田昌幸によって新規に築城されました。
真田氏はもともと上田の北の真田郷を領する豪族で、居城は“真田本城(松尾城)”でしたが、武田氏の臣として活躍する中で領地を拡げ、砥石城、岩櫃城などに居城を変えて行きます。
武田氏が滅んだ後は独立大名と認められ、北上野と信濃の小県郡全体を領地として安堵されています。
しかし、南に接する徳川、北条氏とは争いが絶えず、昌幸は国境に近い上田ヶ原に拠点を移し近代の平城を新規築城しました。
早くも2年後にその懸念は当たり、徳川軍の侵攻を受けますが、昌幸は戦術を駆使して大損害を与え、撃退しています。
しかし、南に接する徳川、北条氏とは争いが絶えず、昌幸は国境に近い上田ヶ原に拠点を移し近代の平城を新規築城しました。
早くも2年後にその懸念は当たり、徳川軍の侵攻を受けますが、昌幸は戦術を駆使して大損害を与え、撃退しています。
その15年後、今度は関ケ原に向かう徳川秀忠率いる“徳川本軍”を迎え、この時も智謀を尽くして徳川方を足止め翻弄し、攻城を諦めた秀忠を戦場に遅延させる事になります。
関ケ原の結果、西軍に属した昌幸は改易となり、高野山に蟄居します。
関ケ原の結果、西軍に属した昌幸は改易となり、高野山に蟄居します。
“憎き上田城”は徳川方により、更地になるくらい徹底的に破壊されてしまいます。
ここを領したのは東軍についた息子の真田信之で、城がない信之は三ノ丸跡に陣屋を構えて居住しました。
ここを領したのは東軍についた息子の真田信之で、城がない信之は三ノ丸跡に陣屋を構えて居住しました。
20年後、信之は松代へ転封になり、小諸から仙石忠政がやってきます。 忠政は許可を得て、上田城跡地に新たな築城を始めます。
地形の関係もあり、新上田城は旧上田城の縄張りをおおいに参考にしたとも言われます。
地形の関係もあり、新上田城は旧上田城の縄張りをおおいに参考にしたとも言われます。
2年後、忠政の死によって、築城工事は中断し、再開される事はありませんでした。現在の上田城の北から西にかけての遺構が不明瞭なのはその為で、“未完成”なのです。
仙石氏の統治は3代続き、但馬の出石へ転封します。
変わって入って来たのは藤井松平氏の松平忠周で、以後7代にわたり明治までこの家で定着します。
変わって入って来たのは藤井松平氏の松平忠周で、以後7代にわたり明治までこの家で定着します。

上田城マップ パンフレットより
上田城を歩く
1.アプローチ
小諸ICからまた上信越道に戻り、2つ目の上田菅平ICで降ります。
1.アプローチ
小諸ICからまた上信越道に戻り、2つ目の上田菅平ICで降ります。
R144に出て、北に行けば真田郷なのですが、予定通りに南へ向かいます。
ナビを頼りに、上田城下の“櫓下観光駐車場”を目指します。
ナビを頼りに、上田城下の“櫓下観光駐車場”を目指します。
六文銭旗がはためく城の堀端を通って一旦下り、やっと駐車場に着きました。
…が、停められない! 大きな駐車場ですが、何か地元のイベントらしきモノをやってて、半分潰れてる上に、イベント参加者の地元ナンバーのクルマが列をなしています。
何か…キツネにつままれた思いでコインパーキングを探すも、ありません。
城内の市民会館に停めた話を聞いた事があったので、ダメ元で行ってみたら…ありました。
ちょっと狭いけど、ここは我慢です。
…が、停められない! 大きな駐車場ですが、何か地元のイベントらしきモノをやってて、半分潰れてる上に、イベント参加者の地元ナンバーのクルマが列をなしています。
何か…キツネにつままれた思いでコインパーキングを探すも、ありません。
城内の市民会館に停めた話を聞いた事があったので、ダメ元で行ってみたら…ありました。
ちょっと狭いけど、ここは我慢です。
2.二ノ丸
市民会館があるのが二ノ丸で、ここには他にも博物館などがありますが、こちらは後で行って見る事にします。
市民会館があるのが二ノ丸で、ここには他にも博物館などがありますが、こちらは後で行って見る事にします。
二ノ丸は本丸を取り巻いた“輪郭式”に近い形ですが、現状は広場で、“重臣屋敷”といった所でしょうか。
クルマで入った大手口には櫓門の石塁がありましたが、空堀に面する土塁などもハッキリ残っていません。

3.本丸
奥に進んで本丸に向かいます。
すぐに復元の東門と連結した南北の櫓が見え、おなじみの風景です。
空堀(北側は水堀)に架かる土橋を渡って行くと、やっぱり居ました。
奥に進んで本丸に向かいます。
すぐに復元の東門と連結した南北の櫓が見え、おなじみの風景です。
空堀(北側は水堀)に架かる土橋を渡って行くと、やっぱり居ました。
真田幸村&十勇士の“武将隊”…。
真田が最初に築いて、奮戦した城…ここまでは百歩譲って理解しますが、なんで信繁? しかも大阪の陣の装束だし…。
真田が最初に築いて、奮戦した城…ここまでは百歩譲って理解しますが、なんで信繁? しかも大阪の陣の装束だし…。
城内への入場は無料で、櫓が資料館になってて、こちらが有料でした。
いちおう入って見ましたが、真田主体だと、これといったモノはありません。そりゃそうだわなw
最後の松平氏は、老中を何人も出した家柄だから、お宝が残ってるんでしょうけど、そちらは正規の博物館の管轄かな?
最後の松平氏は、老中を何人も出した家柄だから、お宝が残ってるんでしょうけど、そちらは正規の博物館の管轄かな?
本丸内は北と南の二段構造になってて、下段には真田神社があります。
周囲は土塁が巡り、北側に登ってみたら外は水堀になっていました。
特に何がどうという特徴もなく、本丸自体が常用されてなかった可能性もありますね。

特に何がどうという特徴もなく、本丸自体が常用されてなかった可能性もありますね。

唯一、立地に真田の雰囲気がある西櫓だが、銃眼も石落しもなく、ただの物置き
4.外周
櫓が1棟ある西虎口から出て、周囲を歩いて見ました。
櫓が1棟ある西虎口から出て、周囲を歩いて見ました。
西側に空堀を挟んで曲輪の跡がありますが、こちらはもう私有地らしく、畑が作ってあります。
北側一帯もスポーツ公園と化してて、痕跡は何もありません。
北側一帯もスポーツ公園と化してて、痕跡は何もありません。
5.博物館
最後に博物館に寄って見ます。
“上田市立博物館”。こちらは上田の歴史を総合的に紹介する博物館の様です。
これといったお宝は無いんですが、地域の産業の移り変わりが勉強できる様になっています。
最後に博物館に寄って見ます。
“上田市立博物館”。こちらは上田の歴史を総合的に紹介する博物館の様です。
これといったお宝は無いんですが、地域の産業の移り変わりが勉強できる様になっています。
6.下城
なんだか期待外れのばかりの上田城。
なんだか期待外れのばかりの上田城。
原因は“真田の城ではない”事でしょうね。
仙石氏が幕府の顔色を伺いながら造った城だから、機能は仕方ないもの。 それを真田の城の様に仕立てるから、観光客は期待してしまいます。
期待してはるばるやって来ても、観光駐車場は地元民が占拠…。この町はどうかしてますよ。
これでよく真田町からクレーム来ないもんだな…と思ったら、合併で上田市になっていました。チャンチャン!
仙石氏が幕府の顔色を伺いながら造った城だから、機能は仕方ないもの。 それを真田の城の様に仕立てるから、観光客は期待してしまいます。
期待してはるばるやって来ても、観光駐車場は地元民が占拠…。この町はどうかしてますよ。
これでよく真田町からクレーム来ないもんだな…と思ったら、合併で上田市になっていました。チャンチャン!