日本100名城  №28  小諸城               登城日 2012.10.27
 
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所在地     長野県小諸市丁311
城郭構造    平山城
通称        酔月城 穴城 白鶴城 鍋蓋城
築城年      1554年(天文23年)戦国時代
築城主      武田信玄
主な改修者   仙石秀久
主な城主    武田氏、仙石氏、牧野氏など
廃城年      ?年(明治維新後)
遺構        大手門、三之門、天守台、石垣、空堀
文化財指定   重要文化財(大手門、三之門)
 
 
 1泊2日で信越の4城ツアーに挑みました。
まず最初は小諸城です。
 
 
 小諸城の成り立ちは室町期の佐久地方の豪族、大井氏によるとされています。
佐久の豪族は戦国期には村上氏のちに武田氏の影響を受けて臣従しますが、武田信玄は山本勘助に命じて、佐久支配の拠点を作らせます。
勘助が目を付けたのが小諸の城で、当時は鍋蓋城と呼ばれていました。

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主郭入り口の二ノ門
 
 中山道から佐久甲州街道と北国街道が分岐する小諸は交通の要衝であり、千曲川の段丘上の“崖城”で、街道側からは“平城”的な構造の鍋蓋城は、攻め(主に物流)に易く、守りに強い、“支配拠点”にうってつけの物件だったのでしょうね。
 
 小諸城は川中島や上野に東奔西走する武田軍団の兵站を支えました。
武田氏が滅亡した後は滝川一益が拠点とし、その後は北条、徳川…と係争地になりますが、北条征伐後に配されたのは仙石秀久でした。
 
 仙石氏は徳川の治世になってもこの地に留まり、二代30年余りで石垣を積み、天守を上げて、小諸城を近世城郭に造り上げました。 
   仙石氏が上田に転封の後は甲府領、久松松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏と短期で移り変わりますが、最後は牧野氏が入って10代170年を治め、明治維新を迎えます。

   入封した大名はいずれも1~3万石の小大名であり、実高が上がらない土地柄もあって、城の遺構は仙石氏のものを維持するのが精いっぱいでは無かったかと思われます。
今日見る小諸城は、“仙石権兵衛秀久の城”と言えるでしょう。
 
 
小諸城を歩く
1.アプローチ

 1泊2日の詰込みツアーですから、今回もクルマ使用。
夜明け前に発ち、関越道から上信越道に入り、朝焼けの妙義山を見ながら碓氷峠を駆け登り、小諸ICで降りて懐古園の駐車場に着いたのは8時半でした。
幸い駐車場は開いてて、難なく近くに停められました。
さすがは信州の10月、寒い!

 
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 本丸を取り巻く天然の堀 垂直です!
 
 
2.二ノ丸
 駐車場がすでに二ノ丸内にあり、懐古園の看板に従って入って行きます。 
\500也のチケットを買って入場すると、懐古館の前で、左手には二ノ丸虎口の重文“三ノ門”があります。
 石垣で固められた頑丈そうな櫓門ですが、壁が漆喰仕上げでなく、板張りなのが信州らしくて良い雰囲気です。
 
 懐古館は最後にして、登城路を上がって行きます。
右手に“野面積み”の石壁が続く坂道を登って行くと、左右に小郭が現れてきます。 
“南丸”“北丸”とありますが、小郭なのでどう使ったのか、ピンときません。

 登りつめると空堀で仕切られて、その向こうはもう本丸です。
堀に架かる橋から堀底を見下ろすと、かなりな深さですが、驚くのは壁面です。
硬い地層が自然に浸食された様子で、ほぼ垂直に切り立っています。難攻要素のひとつですね。
 
 
3.本丸
 橋を渡って、本丸に入ります。
ここにはかつて“黒門”という門があった様です。
 本丸はグルリと天然の嶮しい堀に囲まれた、かなり広い場所ですが、久秀はその中にまた石積みの本丸曲輪を造っています。
 
 天守と幾つかの櫓が有った様で、この中に居館もありました。
腰曲輪状になった低い壇から見て行きます。
   北側は結構な広さがあり、蔵などがあった様ですが、いまは“島崎藤村記念館”がポツンとあります。千曲川に面した西側はさらに広く、“馬場跡”の表示ですが、こんな一等地に馬場は無いでしょう。

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物見台からの千曲川遠望
 
 
 北西の端に張り出した櫓台があり、東屋が建っています。ここからは展望が効き、川沿いの様子が見渡せます。段丘の“崖城”だから、こっちの備えは万全です。

 天守台に登ってみます。
天守は三層で、半地下の初階を含めて4階建てだった様です。仙石氏以降に老朽化で破却したと思われますが、長い年月で孕みが進み、上端はかなり変形してますね。
 
 上屋が無いと、どうしても雨の浸食を受けてしまいます…。
天守台より一段下がり、石塁が曲輪を巡っていますが、東の大手付近は広く複雑になってて、複合の櫓門が有った様子が伺われます。
 曲輪内は庭園の様になっていて、神社や蕎麦屋もあります。
かつて山本勘助がその姿を映して驚いた? という鏡石も展示してありました。
 
   この石垣… 野面積み+孕み+苔で、なんともノスタルジックな、心に残る石垣です。
これだけ見に来る価値もありそうw

南に隣接する“籾曲輪”は現在は動物園になっていて、時々猛獣の声も聴こえます。
 
 
4.懐古館
 最後に懐古館を覗いて見ます。
歴代藩主の遺物展示館という感じですが、最後の牧野氏のモノが殆どなのは仕方ない所です。
 それより、浅間山麓の地力の低さで、表高に対する実高が上がらず、一揆や離散など年貢と収穫での農民の苦労が良く判りました
 
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味わい深い野面積み  戦国の匂いがしそう
 
 
5.下城
 浅間山系と南アルプスに挟まれて、千曲川が流れる風景は、日本人の琴線に触れる“故郷の景色”です。
そこに佇む控えめな古城の姿はまさにベストマッチで、求めてる城の姿はこれなんだなぁ…と気付かせてくれました。
 
 最後に土産物屋を覗いてみましたが、真田グッズの多いことw 『なんで?』と聞けば『真田幸村が居た事のある城なんですよ』と言われました。
 “関東惣無事令”の後に一時的に真田領になった話もありますが、春日山か大坂に居た幸村(ほんとは信繁)が居た可能性は低いでしょ。
 長野に来ると観光資源の“真田”の価値は高騰してますが、史実を正しく知ろうとしない観光客も問題だなぁ…。