日本100名城 №25 甲府城 登城日 2012.10.20

所在地 山梨県甲府市丸の内1-5-4
城郭構造 梯郭式平山城
通称 舞鶴城、一条小山城
築城年 1583年(天正11年)安土桃山時代
築城主 徳川家康?、羽柴秀勝
主な改修者 浅野長政、柳沢吉保
主な城主 浅野氏、徳川氏、柳沢氏
廃城年 1873年(明治6年年)
遺構 堀、石垣、櫓、門
文化財指定 山梨県史跡
城郭構造 梯郭式平山城
通称 舞鶴城、一条小山城
築城年 1583年(天正11年)安土桃山時代
築城主 徳川家康?、羽柴秀勝
主な改修者 浅野長政、柳沢吉保
主な城主 浅野氏、徳川氏、柳沢氏
廃城年 1873年(明治6年年)
遺構 堀、石垣、櫓、門
文化財指定 山梨県史跡
続いて訪ねたのは甲府城。
こちらは城歴としては新しく、豊臣末期からの城です。
甲府城といって思い浮かぶのは…う~ん…。戊辰戦争の“甲陽鎮撫隊”くらいかなぁ。
甲州街道から東進する官軍を城に籠って喰い止める為に、新撰組が中心に組織された部隊ですが、近藤勇たちが故郷の日野で歓待の宴でモタモタしてる間に先に占領され、すごすご引き返した…あの城ですねw。
こちらは城歴としては新しく、豊臣末期からの城です。
甲府城といって思い浮かぶのは…う~ん…。戊辰戦争の“甲陽鎮撫隊”くらいかなぁ。
甲州街道から東進する官軍を城に籠って喰い止める為に、新撰組が中心に組織された部隊ですが、近藤勇たちが故郷の日野で歓待の宴でモタモタしてる間に先に占領され、すごすご引き返した…あの城ですねw。

パンフレットより
甲府城を歩く
1.アプローチ
かなり偏った先入観での登城ですが、まず駐車場がありません。
“舞鶴公園”として整備されていますが、公園駐車場は団体バスと身障者専用です。
その理由は甲府駅の目の前にあり(城内に甲府駅がある…が正しい)徒歩登城の便は最高ですw という事で、コインパーキングを探して停めます。
その理由は甲府駅の目の前にあり(城内に甲府駅がある…が正しい)徒歩登城の便は最高ですw という事で、コインパーキングを探して停めます。
駅からは内松陰門という復元門を持つ入口が近いのですが、パーキングの関係で南の遊亀橋から入ります。
内堀に掛かる橋ですが、近年に造られた“通用橋”の様です。
改めて城容を見てみると、梯郭式の一二三段の本格的な石の城で、津山城や丸亀城を彷彿とさせる迫力です。
躑躅ヶ崎に代わる甲斐の中心として、この地に石を積んで、築城に取り組んだのは、羽柴秀勝→加藤光泰そして最終的に完成させたのは浅野長政です。
改めて城容を見てみると、梯郭式の一二三段の本格的な石の城で、津山城や丸亀城を彷彿とさせる迫力です。
躑躅ヶ崎に代わる甲斐の中心として、この地に石を積んで、築城に取り組んだのは、羽柴秀勝→加藤光泰そして最終的に完成させたのは浅野長政です。

南側の内堀 補修後間もない石積みはキレイです。
2.入城
城内に入るとすぐにガイドのオジサンが出迎えてくれて、パンフを渡してくれます。 さっそく色々と取材w
頂上付近に広範囲に工事足場が組んであるので、天守を建てるの? と尋ねると、『天守台の石垣の補修をしている』との事。
頂上付近に広範囲に工事足場が組んであるので、天守を建てるの? と尋ねると、『天守台の石垣の補修をしている』との事。
天守を建てようという声は有るのだけど、『天守があったらしい…という話だけで、実在を示す文書も無く、どんな天守だったかの手掛かりとなる絵図も発見されてないから、まず文化庁の許可が降りない』との事です。
いろいろと勉強になります。
可能性が高いのは加藤光泰の頃で、甲府へは24万石で入封してるから、天守があった可能性は低くないですね。
可能性が高いのは加藤光泰の頃で、甲府へは24万石で入封してるから、天守があった可能性は低くないですね。

復元:稲荷櫓
3.稲荷曲輪
一段目の鍛冶曲輪は広場になってて何もないので、石垣を見ながら二段目の稲荷曲輪へ登って行きます。
武徳殿を見て、西側の段差を確認して、本曲輪の石垣に添って進んでると石垣補修現場に通り掛かります。
こういう工事に立ち会った事がないので、興味深く見ましたが、ふとそれまでの石垣との変化に気付きました。
こういう工事に立ち会った事がないので、興味深く見ましたが、ふとそれまでの石垣との変化に気付きました。
同じ“打ち込み接ぎ”ですが、明らかに小石が多いんです。
理由は判りませんが、耐震強度はこっちの方があるのかなぁ…などと想像。
二段目の天守台下は真っ平らな広場になっていて、たぶん御殿跡なんでしょうね。
理由は判りませんが、耐震強度はこっちの方があるのかなぁ…などと想像。
二段目の天守台下は真っ平らな広場になっていて、たぶん御殿跡なんでしょうね。
北側には稲荷櫓という二層の櫓と、付随する土塀が復元されています。
ここまで来て、ガイドのお姉さん(元)が声を掛けてくれました。
『石垣に興味ありますか?この城の見どころにご案内しますよ』 という事で、ホイホイついて行く事にしますw
稲荷櫓の横からの下り道を降り、稲荷曲輪の北側の下に連れて行かれたのですが、『ここの石垣が関東で一番高い石垣なんですよ』との事。
稲荷櫓の横からの下り道を降り、稲荷曲輪の北側の下に連れて行かれたのですが、『ここの石垣が関東で一番高い石垣なんですよ』との事。
この辺りは二段目の稲荷曲輪でも、下から直接立ち上がった高石垣になっていて、確かに高いです。『19mありますよ』との事。

“関東一” の高石垣
戻る道すがら、御主人が子供の頃、石垣を登って、よく叱られたらしい…なんて話も聞かせてくれましたw
4.本丸
ガイドさんと別れて、三段目の本丸を目指します。
本丸石垣の北側を回り込む様に登り、西側で段上に出たら本丸です。
天守台は東の端だから、一番奥になりますが、そこまでの広場は西に向けて傾斜になり、しかも大きなウネリがあります。つまり、ここには建物は無く、当時から広場だった(使ってなかった)という事ですね。
そこに天守台だけは忽然とあります。 かなり急いで天守の工事を始めて、途中で断念したという事かな?
本丸石垣の北側を回り込む様に登り、西側で段上に出たら本丸です。
天守台は東の端だから、一番奥になりますが、そこまでの広場は西に向けて傾斜になり、しかも大きなウネリがあります。つまり、ここには建物は無く、当時から広場だった(使ってなかった)という事ですね。
そこに天守台だけは忽然とあります。 かなり急いで天守の工事を始めて、途中で断念したという事かな?

天守台 手前のは付け櫓か?
天守台は地下倉を持つ本格定な造りで、立派なものです。
形状からして、松江城みたいな付け櫓を持つ五層規模の天守が企画されてたのでは無いかな。
資料の発見が待たれますね。
形状からして、松江城みたいな付け櫓を持つ五層規模の天守が企画されてたのでは無いかな。
資料の発見が待たれますね。
5.下城
いろんな勉強をさせてもらって、甲府城を後にします。
関東(いちおう)もここまで来れば石材も豊富で、石の城に馴れた西国大名が来ると、無条件に石垣を積むのでしょうね。小田原近郊の山上にだって積んだんだから…。
思いの外立派な城址でした。
関東(いちおう)もここまで来れば石材も豊富で、石の城に馴れた西国大名が来ると、無条件に石垣を積むのでしょうね。小田原近郊の山上にだって積んだんだから…。
思いの外立派な城址でした。
甲州は武田の本拠地で、武田といえば武田流築城術…というくらいで、今度来る時は、白山城から新府城まで、武田の城の変遷を見てみたいですね。