日本100名城  №24  武田氏館跡        登城日 2012.10.20
 
イメージ 7
 
所在地      山梨県甲府市古府中町2611
城郭構造    連郭式平城
通称       躑躅ヶ崎館
築城年      1519年(永正16年) 室町時代
築城主       武田信虎 
主な改修者    徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰 
主な城主     武田氏、河尻秀隆、徳川氏、豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政
廃城年      1594年(文禄3年年)
遺構        石垣、土塁、堀
文化財指定   国の史跡
 
 
 100名城めぐりで甲州遠征して来ました。
山梨は武田氏館(躑躅ヶ崎館)と甲府の2城になります。
 
 まず訪れたのは武田氏館。
信虎が構えて、晴信、勝頼と三代に受け継がれた、武田の本拠地です。
 敢えて触れる事もありませんが、武田は居城を構えない主義なので、“城”というには物足りなさが有りますが、中世の豪族の居館を大きく強化した構えで、“平城”の原型ともいえる縄張りを見る事ができました。
 
 
武田氏館を歩く
1.アプローチ
 アプローチは車だったので、中央道の甲府昭和ICからです。
電車だと甲府駅の北口から一直線の道路“武田通り”が館まで延びていて、とても判りやすく、甲府の大事な遺産なのが判りますね。
 武田氏館という名前よりは“武田神社”の方が良く通る感じではありますが…。
 
イメージ 1
館の西側 堀端の駐車場から
 
 
1.入城
 西側に隣接する無料駐車場に車を停めて歩き出すと、そこはもう堀端で幅10mほどの水堀を挟んで館の土塁が見えます。
 ザックリ方形の土塁で、横矢などの工夫は見られません。
時代を考えれば、やはりここで防戦するという概念が無かったのでしょうね。

 
 西南の角を曲がると正面の入口が見えます。 
前述の甲府駅へと延びる通りの起点ですが、本来の大手は東にあり、南に門は無かった様ですね。
 入口は石積みの櫓台を二つ備え、城の虎口風ですが、間の石段を登って鳥居をくぐる様に造られています。
 堀には朱塗りの太鼓橋があるなど、神社の門と城跡を意識して後世に造られたものですね。
 
イメージ 3
館の南側  神社の正門(鳥居)はこちら
 
 
 ここまでは神社参拝になってしまい、城オタには寂しい限りですが、遺構を維持するには費用も掛かるし、甲州の市民が郷土の英雄を神と崇めて、御利益を願う形は極めて正常な姿ですからね…。
 信玄公も大して金を落とさない一見の城オタより、折々に参拝する氏子さんの方を有り難く思ってるでしょうw
そんな理解のし方を考えながら、奥へと歩を進めます。
 
 連郭式平城ですが、神社の敷地になってる“本曲輪”と西に隣接した“西曲輪”だけが現存する様です。
 他にも南と北に郭があった様ですが、南の“椎翁曲輪”は消滅しています。
郭内は平坦で、周囲を土塁が囲む“中世の居館”タイプですね。
 突き当りの拝殿で信玄公に挨拶したら、早々に大手口に向かいます。
が、拝殿脇にある“宝物殿”なるモノが目に入り、こちらを先に見ます。
 

イメージ 2 
拝殿脇にある武田氏宝物殿   ここは必見!
 
 
3.宝物殿
 入場料\300を払い中に入ると、さほど広くはないですが、“良いモノ”のオーラを感じます。
まず目に飛び込むのが孫子の旗、かなりボロボロですが紺地に風林火山の文字が残り、本物感満点w。
 これを見上げて旗本は勇気付き、敵兵は怖れおののいたのでしょうね。
伝信玄所要の兜や軍配にも魅入りましたが、何より心奪われたのがズラリ並んだ二十四将の甲冑群。

 全部揃ってはいない様ですが、高坂弾正のは大河ドラマ『天地人』のと同じデザインだし、討死にした時に着てた山本勘助の甲冑の前では、しばし時間を忘れてしまいました。
 伝武藤喜兵衛所要の甲冑もありました。こう書いてくれると、使番として戦場を駆け回ってた頃の真田昌幸の姿が目に浮かび、嬉しいですね。
とにかく、こんな安い\300は有りません。ここを外したら絶対ダメですよw
 
 
4.大手周辺
 宝物殿を出て、大手口に向かいます。
土塁の切れ目に土橋があり、外と繫がっていますが、外の堀端の道と完全にフラットなんですねぇ。
 兵士や小荷駄の出し入れは楽…ですけど。
土塁をカットした下半分は石積みになっているから、それなりの門構えは有った様です。
堀はこの土橋を挟んで南が水堀、北は空堀になっています。
 
イメージ 4
 大手口の土橋を挟んで、南北の堀
 
イメージ 5
 
 
  空堀を覗いて見ると、深いです。 
土塁上との高低差は優に10mはあるから、それなりに堅固かも。
 大手口の前に低い復元石垣があり、看板に“馬出し”と記されていました。 馬出しにしては兵を待機させる広さじゃないし、1mほどの高さでは兵を隠せない…。何を意図したものか、よく判りません。

 大手口の東側は公園のような広場になってて、復元した土塁などもありましたが、解説の看板を読む限り、時代が混在しています。
 武田滅亡後も、豊臣、徳川系の大名が入って、天守造営など改変を試みてるから、ここは武田氏一本で整備して欲しいものです。
 
イメージ 6
土塁が整備された大手口広場   何時の時代の何なの?…という感じ
 
 
5.北側エリア
 空堀に添って北上してみます。
北側には、人質曲輪や勝頼の住んだ塩曲輪があった筈。
しかし、本丸の北面はまだ手付かずの様で、荒れていますね。
一見荒れ野ですが、よく見ると耕作地の跡です。

 廃城後に田畑になっていたモノを、自治体が遺構整備の為に買い取ったのでしょうか?
そうだとすれば、今後発掘調査を経て、復元がなされるのでは…と期待が膨らみますw
 少し北上して、外郭の堀跡が無いか探して見ましたが、埋められたのか見つかりませんでした。
 
イメージ 8
北面の曲輪跡  発掘調査待ち?
 
 
6.下城
 “塩曲輪跡”と思われる地点から、郭内に入る搦め手の土橋があったので入ってみます。
 こちらも大手口と同じ構造で、道幅が狭いものの、当時のサイズはこれなんでしょうね。
 入ってみると西曲輪でしたが、賑やかな本曲輪に比べ、明治以降の顕彰碑が幾つかあるだけの広場でした。
 
 “武田信玄”という超メジャーな偉人を抱える甲府市と武田神社。 
老若男女を問わない城ブームの中、悩みと迷いはあるでしょうが、更なる活性化を手伝って貰うなら、神社の移転と“躑躅ヶ崎館”の完全復元という選択肢も有るのではないか…と思いました。