日本100名城  №20  佐倉城              登城日 2012.09.29
 
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所在地       千葉県佐倉市城内町官有無番地
城郭構造     連郭式平山城
通称       鹿島城
築城年      ?年(天文年間?) 戦国時代
築城主       鹿島 親幹
主な改修者    千葉邦胤、土井利勝
主な城主      鹿島親幹、千葉邦胤、土井利勝、堀田氏
廃城年       1873年(明治6年)
遺構         堀、土塁
文化財指定    佐倉市史跡
 
 
  千葉の佐倉城に行ってきました。
戦国時代の下総は千葉氏が有力で、拠点はほど近い本佐倉城(将門山城)でした。
佐倉城は本佐倉城の支城として着工しましたが、千葉家当主の親胤が北条氏に暗殺されると頓挫して、未完のままで江戸時代を迎えます。
 
 関東には江戸城を中心に幾つかの衛星的な支城が整備されます。
一番東に築かれたのが佐倉城で、幕府の要職にあった土井利勝が放棄されてた基盤の上に自らの居城として築いた城です。
 石材の乏しい関東東部ですから、土塁+空堀の土の城なのですが、見映えはともかく、戦いに弱いとは言い切れないのが築城技術の面白いところです。
 
 利勝は佐倉には3万2千石で入り築城を始めましたが、古河に転封するまでの20年ほどで幕府の大老にまで上り詰め、14万2千石まで加増されています。
その後も佐倉城は代々“幕府の実力者の城”として、幕末の堀田氏まで続いて行きます。
 
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佐倉城縄張りと城下図
 
 
佐倉城を歩く
1.アプローチ
 東京から佐倉城へは京成線の京成佐倉駅が便利です。
南口に出て、線路沿いに西に行くとすぐに城山が見えてきて、ほどなく城の堀端に出ます。
そこが“田町門”と呼ばれる大手門口となります。
 
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大手門付近の水堀と土塁
 
 
2.入城
 佐倉城は殆どのエリアが旧陸軍の駐屯地になったため、遺構の多くが改造され、大手口からの登城路は真っすぐな広い車道と化してしまっています。   
 それでも道の両側には段々状の郭と土塁跡が見られます。
坂を登り切ると広い平地に出ます。
椎木曲輪と呼ばれる武家屋敷の曲輪ですが、現在は異様にデカい近代的な“国立歴史民俗博物館”があります。
規模が半端ないですし、後でゆっくり覗いて見る事にします。
 
 城の見取り図が無い事には如何ともし難く、案内所を目指します。
案内所は椎木曲輪から谷を隔てた天神曲輪跡の駐車場にあるので、谷を下って行きます。
 5分ほど歩いてやっと谷底ですが、そこは広い“姥ヶ池”という睡蓮池になっていて、庭園の風情でした。

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姥ヶ池 内堀…と思いきや、水源地でした
 
 
3.天神曲輪
 池端からまた登りますが、こちらは途中から深い空堀形状になり、登り切った所は天神曲輪と三の丸を繋ぐ土橋の上で、ちょうど空堀の底を登ってきた(遊歩道になってるが)様です。
 ここから天神曲輪を眺めれば、古い昔の武家屋敷と芝生広場と駐車場の運動公園になっています。
 
 その駐車場の入口にあるプレハブが、佐倉城の案内所で、パンフを頂き、少量ながら資料展示があるので見せて貰いました。
 一番奥には天守模型があり、破風のないシンプルな三層天守でした。土井利勝が質素倹約を示すべき幕閣であり、土の天守台に立つ天守ですから、あまり大きな筈もありませんね。
 
 
4.本丸へ
 パンフを手に、いよいよ城の中枢を目指します。
先ほど登り着いた土橋から三の丸に入って行きます。
 三の丸より内側は城址公園として維持・整備されていて、余分な建築物は一切なく、それだけに人も少なくて、のんびり安心して散策できます。

 三の丸、二の丸はさして広くは無いのですが、本丸を囲む様に深い空堀を走らせて、連続した馬出しの形状を構成し、防御力を強化してるのが判ります。
 本丸に至るまで、入口は必ず土橋でつながり、内側に櫓門を配して固めてあります。
 建物の遺構は無いのですが、当時あった場所に明治初年の古写真を入れた案内板があり、容易にイメージする事ができます。この手法、他の城も見習って欲しいものですね。

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本丸一ノ門跡と古写真   とても判りやすい案内板です 
 
 
 一の門跡を渡って、本丸突入です。本丸を巡る空堀はまたひときわ深く、草木に覆われて堀底は視認できないものの、優に10mはありそうです。
さらに、堀った土は本丸の土塁として積み上げてあるため、なかなか堅固です。