日本100名城  №17  新田金山城           登城日 2012.09.15
 
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所在地       群馬県太田市金山町40-98
城郭構造     連郭式山城
通称       金山城、太田金山城
築城年      1469年(文明元年) 室町時代
築城主      岩松 家純
主な改修者    後北条氏
主な城主      岩松氏、由良氏、高山定重、宇津木氏久
廃城年      1590年(天正18年)
遺構        石垣、土塁、堀、馬出し、井戸
文化財指定     国の史跡
 
 
  新田金山城に初めて行ってきました。 
恥ずかしながら、100名城のリストで初めて知った城ですw
 
 群馬の太田市、関東平野には珍しい、ボコンと突き出た独立峰上にある山城です。
R407で太田市街を北上して行くと、正面に見える三角錐の山がそうですから、すぐに判りますね。
 山裾に掛かった所の左手にあるガイダンス施設に寄って、パンフをゲット、再び車に乗って、案内看板に添って登り始めます。
 比較的広い登山道を5分も走れば、アスファルト&区画付きの駐車場に着きます。
広めの曲輪跡をそのまま駐車場にしてるみたいで、キャパは100台くらいかな? でも、無名な城跡の割に停まってる車の多いこと! 半分以上埋まっています。
 
 ともかく見学開始。主郭部目指して歩き出します。
駐車場のすぐ上の広場に全体図の大きな看板があり、立体の絵で全貌が確認できます。
 なるほど、全山要塞の巨大な山城で、主郭は石垣を多用した関東には希少な城ですね。
 しきりに感心していると、ボランティアガイドのおじさんが近付いて来て声を掛けてくれました。
『新田義貞の城なんですよ!』から始まって、主郭部の石垣が有名だけど、その手前の遺構がこの城の見どころなんだ…という事で、渡りに船とばかりに案内をお願いしました。
 道すがら、新田と足利の関係などを手作りの系図を出して詳しく教えてくれましたが、畠山重忠も新田一族(娘婿)という事も初めて知りました。

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 物見台下堀切 全部が岩盤です
 
 主郭部へは尾根に添った緩やかな登りが続き、両側は当然急斜面です。
所々に切通しと空堀で分断する、中世山城の見本の様な縄張りですが、やがてひときわ大きな切通しに着きます。 
岩盤をくり抜いた様な造作で、この山自体が岩山(たぶん安山岩)なのがよく判ります。
 ここからが主郭部で、途端に復元の石積み遺構が見られます。 
虎口も2m幅ほどの土橋の向こうに、両側に櫓台の様な石積みがあり、たぶん櫓門になっていたんだろう…との事でした。
 そこを過ぎると大きな竪堀になり、木橋で通り過ぎたら更に同様の石積み遺構が待ち構える、複雑な構造です。

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土橋通路と櫓門の石垣台
 
 この通路が大手道かと思いきや、竪堀の下に帯曲輪状の通路があり、この道が大手と西の城を繋いでる様です。 
つまり、この道に侵入した敵も上の櫓から狙い撃ちできる訳ですね。
 更にこの上には尾根を削った郭があり、門を突破した敵を上から狙える訳で、侵入を阻む仕掛けが幾重にも施されています。

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竪堀を渡る木橋とその向こうの櫓門台
 
 手の込んだ金山城のハイライト部分をいろいろ説明してくれたガイドさんも『あとは自由に見てください』とここでお別れw
  拍子抜けしながら先に進んで行くと、珍しい物がありました! 石造りの丸い池。
“月の池”というのだそうですが、なるほど、岩山だからこうすれば水が集まって来ますよね。

 さらに進むと現れるのは、マチュピチュと見まごう石垣造りのひな段。 これは凄い!…というか、凄すぎて“嘘でしょ?”というのが本音です。
 石材がふんだんに採れる上に100年以上の歴史だから、こういう整備のし方も有るかも知れませんね。 
ふだん土の城に慣れた当方の先入観による感想なんでしょうw
いやぁ凄いです。

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日の池” 擂り鉢の底で、水量は豊富
 
 
 石造りの住宅団地を見ながら石畳の道を登って行くと現れたのは洪水調整池? という表現がピッタリな石造りの池。今度は“日の池”だそうです。 
 こちらの方が高地にもかかわらず、圧倒的に大きく、水も豊富。たぶん水に困らない事が一番の強みで、長年維持された理由なんでしょうね。
 
 この上段はもう頂上の尾根になり、ひときわ広い郭が形成されていて、展望台&休憩所になっています。本丸の一段下という事で、御殿でもあったのかな?
ここからの眺めは、眼下に太田の市街を見下ろして、遠く“関八州”を見渡す…感じですね。
 
 さて最後は本丸ですが、ここは“新田神社”となっていて、名前の通り地元の信仰を集めている様ですから、見学にも注意が必要です。
比高は10mくらいでしょうか、緩やかな坂の参道になっていて、登って行くと本殿の建物が見えてきます。
 
 紋幕には一つ引きのまぎれもない新田紋。 思わず身が締まる思いがして、秀吉や家康が蘆名、武田、京極などと並んで、源氏の名家を大切にしたのが判る気がしますw。
まずは義貞公にご挨拶です。
 
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新田神社社殿 城の天守の位置です
 
 
 本丸が最頂なのですが、神社林に囲まれて眺望は効きません。 唯一、北東に空間があり、覗いて見たら渡良瀬川と足利の街が見渡せます。
あいにく足利氏館跡は確認できませんでしたが…。
 ここまでのアプローチでは、石垣が多用されてる城でしたが、本丸エリアだけは昔ながらの土塁構造で、やや違和感があります。
 
 これだけコダワリを持って造られた石の城で、本丸は別というのも考えにくいので、北条の末期に石普請の途上で、本丸を残した段階で落城した…という解釈が妥当かも知れませんね。
 そうすると北条が石を積んだ…?という疑問もありますが、八王子の御主殿廻りは石造りですもんね。

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本丸裏の土塁下部にある古石垣
 
 
 ちょうどすれ違ったガイドの方に聞いて見たら、『裏側に石垣の遺構がありますよ!』という事だったので、社殿の左側から土塁下の帯曲輪に降りてみます。
 しばらく探すと、2~3坪の面積で2mほどの高さの石積みが確認できました。こちらは加工の無い自然石を野面積みしたもので、既出の遺構とは明らかに違う古いものです。
石塁というよりは、土塁の崩れやすい部分を補修したって感じでしたね。
 
 陽もだいぶ傾いてきたので、ゆっくり下城にかかります。
改めて登城者が多いのと、そのバラエティーさに驚きますね。
お仲間の城オタも居ますが、中心は家族連れの行楽客かなぁ。
軽登山のハイカー風や、夕刻からはカップルも目立ってきました。
 見晴らしが良いから、夜景の綺麗なデートスポットなのかもしれませんね。