日本100名城  №21   江戸城                    登城日 2012.09.09
 
イメージ 1
 
所在地       東京都千代田区千代田
構造       輪郭式平山城
通称       千代田城
築城年       1457年(長禄元年) 室町時代
築城主       太田 道潅
主な改修者    徳川家康、秀忠、家光
主な城主      太田氏、後北条氏、徳川将軍家、皇室
廃城年       皇居として継続
遺構         現存櫓・門、石垣・土塁・堀
文化財指定    国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)  特別史跡
 
 
 江戸城は現在の皇居とその周辺の広大な地域です。
武蔵野台地が日比谷の海に落ちる東端にあり、江戸湾から関東平野に入る古くからの要衝です。
 最初に居を構えたのは江戸氏で、周辺を支配した為、この地域は江戸郷呼ばれる様になりました。 
戦国時代、この地は関東管領:扇谷上杉氏が支配し、家臣の太田道潅に与えられました。
 
  道潅は後の本丸、二ノ丸、西ノ丸にわたる本格的な城館を築き、江戸城という名が生まれます。その後、後北条氏の武蔵侵攻で北条氏の支配下になり、江戸城は関東経営の一拠点となりますが、豊臣秀吉の北条征伐が始まると、江戸城にも秀吉の大軍が殺到し、あえなく開城してしまいます。
 
 戦後の論功で関東を与えられた徳川家康は、新しい領地の拠点を小田原城ではなく江戸城と定め入城しました。 
 家康は太守の拠点として城の規模拡大を図りましたが、低い土塁主体の質素な城であったそうです。
 秀吉が死去し、関が原の戦いを経て江戸に徳川幕府を開くと、家康は天下普請の号令を発し、全国の諸大名の賦役による、政治の中枢としての江戸城の拡張・改造工事が始まります。
それらの工事は60年に及び、延長20km余の総構えを持つ総石垣の未曾有の巨城が出現する事になります。
 
 250年の後、西国雄藩から倒幕の火の手が上がると幕府は一気に瓦解します。天皇親政を行なう明治新政府は、東京遷都を決め、旧江戸城は皇城として使われる事になって現在に至っています。
 
イメージ 2
江戸城の玄関口“和田倉門”
 
 
江戸城を歩く
 とにかく広い城です。内堀に囲まれたエリアだけでも大名の城の総構えを優に越える広大な領域を歩くのは無理だし、皇居として使われてる部分は立ち入り禁止なので、まずは『皇居東御苑』として開放されてる本丸、二ノ丸と、現存する三ノ丸の一部に限って歩いて見ます。

 最寄駅といえば東京駅。
大手門に一番近いのは地下鉄の大手町駅ですが、東京駅が立地する旧大名小路から郭内の西ノ丸下に入る正規のルートである和田倉門跡が現存するので、ここをスタートとして城内に入って行く事にしました。
明治天皇が江戸城に入城する際も、ここから入られたそうです。
 
イメージ 3
会津松平家の上屋敷跡  和田倉噴水公園
 
 
西ノ丸下
 門内は西ノ丸下という郭で、今は皇居外苑の広大な公園になっていますが、二重橋と伏見櫓が見える、皇居の顔の様な雰囲気のある所で、かつては親藩の幕閣大名の上屋敷が並んでいた所です。 
 門を入ってすぐには会津松平家の屋敷があり、文字通り藩屏としての役責を果たしていました。
 
 この跡地は現在、今上天皇のご成婚を記念した和田倉噴水公園になっており、涼を求める市民で賑わっています。
 公園を抜けると内堀通りの広い道路になり、これを右に折れて、桔梗堀を左手に見ながら暫く歩くと、大手門と大手橋が見えてきます。
 
イメージ 4
内玄関の“大手門” 見事な枡形門です
 
 
大手門~中ノ門
 桔梗堀を渡るのは土橋で、幅も広く、正面玄関の風格です。
大手門は正面に高麗門があり、90度右折して渡り櫓門の枡形で、和田倉門には居なかった皇宮警察の門衛が目を光らせ、俄かに緊張が走ります。

 
  枡形に入ると、土塀に穿った銃眼とそれに至る石段があり、城の戦闘機能がちゃんと備わってる事を実感します。
 櫓門をくぐるとそこは三の丸で、すぐに公園の受付があり、入場料は要りませんが、番号札を渡されます。
 ちなみにこの札は出門時に回収され、これで人の出入りをチェックしてる様です。
堀ひとつ隔てて、天皇のおわす皇居ですから、これは仕方ないな。
荷物チェックは特に無かったけど、大きなリュックを背負った外人も居て、そんな人はどうしてるんでしょうね?
 
 受付からはほぼ直線で三ノ御門に至ります。当時は門の前に蛤堀が横たわって、二ノ丸とを隔てていた筈ですが、今は埋められていて、皇宮警察の敷地になっています。
 三ノ御門には建物は現存せず、枡形の石積みが残るだけですが、ここは二ノ丸御殿に入る銅門と繫がっているので、複雑な構造ですね。 枡形内には“同心番所”の建物があり、門衛が居た事が伺われます。

イメージ 5
三ノ御門内 “百人番所” ここに常時警備の旗本が詰めていました
 
 
 枡形を抜けると広い広場になり、左手に長屋風の大きな建物が残っていますが、“百人番所”といわれる建物で、ここには高級な旗本が警備に詰めてたそうです。
 この広場、大名が登城する際のお供の控え場所だそうですが、荒天の時はどうしてたんでしょうね?
 
 “百人番所”の対面には二ノ丸と本丸を隔てる石垣が続き、中央に中ノ門の石塁があります。
 江戸城の中でもここの石垣は、ひときわ巨大な方形の石が積まれていて、圧倒的な質量感があって、江戸城の見どころのひとつと言えるでしょう。
中ノ門は直接の櫓門で、ここを過ぎるといよいよ本丸です。
 
イメージ 6
中ノ門の基壇の石垣
この上に渡り櫓門と長~い多門櫓がありました 算木積みの角石の大きさ! 
 
 
本丸西側
 中ノ門内はすぐに本丸の本石垣が迫り、大きな枡形状になっていますが、道は緩やかな登りになり、S字を描いて石垣上に登ります。 
 登り切った所に最後の枡形があり、高麗門を“冠木門”、櫓門を“中雀門”と言います。
 両方とも建物はありませんが、門の石積みが異様に焼けて傷んでいるのが目に付きます。
火事と喧嘩は江戸の華ですから、どっかの大火で類焼したのでしょうね
 
イメージ 7
 焼け焦げた“中雀門”の石垣