日本100名城 №18 鉢形城 登城日 2012.8.25
鉢形城の続きです。
6. 搦め手 笹曲輪
本曲輪の東端から東へ下る道があり、下に芝生の広場があり、降りて見ると“伝笹曲輪”の看板がありました。笹曲輪は鉢形城の東の端で、振り返って本曲輪を見ると10m近い段差になっています。
現在はここに橋が架けられ、寄居市街から県道が男衾方面へ抜けています。
ちょうど御殿曲輪を貫く公道と三叉路を作っていますが、周囲の市街地を含めて一帯が笹曲輪跡です。
鉢形城が荒川と深沢川の交わる河岸上なのは前述しましたが、ちょうど川が交わる船の舳先状の形から笹曲輪と呼んだらしいです。城の機能としては搦手の役割で、広い平坦地となっています。
本曲輪の東端から東へ下る道があり、下に芝生の広場があり、降りて見ると“伝笹曲輪”の看板がありました。笹曲輪は鉢形城の東の端で、振り返って本曲輪を見ると10m近い段差になっています。
現在はここに橋が架けられ、寄居市街から県道が男衾方面へ抜けています。
ちょうど御殿曲輪を貫く公道と三叉路を作っていますが、周囲の市街地を含めて一帯が笹曲輪跡です。
鉢形城が荒川と深沢川の交わる河岸上なのは前述しましたが、ちょうど川が交わる船の舳先状の形から笹曲輪と呼んだらしいです。城の機能としては搦手の役割で、広い平坦地となっています。
県道が深沢川を渡る橋に“搦手橋”と書いてあったので行って見たら、浸食の段丘も合流地点になると目もくらむほどの深い谷になっています。
北条征伐の陣立てでは攻将は前田利家ですが、さすがの猛将又三も、このラインを越える事は出来なかったのではないかな…。
笹曲輪の搦手橋から見下ろす深沢川。
水流が岩を削った深いV字谷で、お釜が幾つも出来ている
水流が岩を削った深いV字谷で、お釜が幾つも出来ている
7.天然の外堀 荒川
荒川に架かる橋を渡って対岸から城を見てみます。
一見こんもりとした小山だが、山裾部分は川に沿って白い岩壁が続き、“せせらぎ”とは言えない、急流下りが出来そうな水量と流れが右岸の岩壁を洗っています。
荒川に架かる橋を渡って対岸から城を見てみます。
一見こんもりとした小山だが、山裾部分は川に沿って白い岩壁が続き、“せせらぎ”とは言えない、急流下りが出来そうな水量と流れが右岸の岩壁を洗っています。
橋を戻りながら間近で見ると、そそり立つ岩壁が延々と続き、細い滝水が一度も岩壁に当たる事なく川面に落ちています。
これは、対岸からの渡河攻撃はほぼ不可能ですね。
しかし、北条征伐の陣立てでは対岸に布陣したのは真田昌幸…。 何かやってくれそうな武将ですが、たぶん包囲と支城の制圧を任されてたのかも知れませんね。
しかし、北条征伐の陣立てでは対岸に布陣したのは真田昌幸…。 何かやってくれそうな武将ですが、たぶん包囲と支城の制圧を任されてたのかも知れませんね。

荒川の笹曲輪沿いの断崖 ここからはとても攻められません
8. 西の押さえ 二ノ曲輪
御殿曲輪に戻って、二ノ曲輪に向かいます。
二ノ曲輪は鉢形城拡張第一期工事と言える曲輪で、北条氏邦が奪取する前からあったかも知れません。
御殿曲輪に戻って、二ノ曲輪に向かいます。
二ノ曲輪は鉢形城拡張第一期工事と言える曲輪で、北条氏邦が奪取する前からあったかも知れません。
曲輪間が大きな空堀で区切られていた事は述べましたが、現在は荒川河畔に下りる道路になっている様に、北面ではここが唯一傾斜が緩く、当時も日常的にここから降りて、渡し舟で対岸へ渡る通用口でもあった様です。その分、防御施設や人の配置も厳重だったでしょうけどね。
二ノ曲輪には“城山稲荷神社”が造営されていました。位置が三ノ曲輪と対面する“櫓台”の上と思われるので、後の時代に移設もしくは造営されたものでしょうね。
神社の裏を土塁沿いに回りこむ様にして、三ノ曲輪へ向かう道があり、すぐに大きな空堀が現れます。 細い土橋で三ノ曲輪へつながり、空堀はそのまま竪堀となって荒川に落ちてい行きます。
三ノ曲輪側に登りきれば、この城で一番の壮大な空堀が目に入りますが、ここでふと不自然さに気付きます。
本曲輪に近い二ノ曲輪より、外側の三ノ曲輪側のほうが遥かに高いのです。
鉢形城の西側は上流へと向かう台地で、緩やかな上り坂になっいて、空堀を掘っただけなら必然とこうなるのですが… 普通は掘った土はすべて二ノ曲輪側に積み上げないと、防御にならず戦えないので、何らかの対策がされていた筈です。
せっかくの復元ですが、考証は正確ではない様ですね。
鉢形城の西側は上流へと向かう台地で、緩やかな上り坂になっいて、空堀を掘っただけなら必然とこうなるのですが… 普通は掘った土はすべて二ノ曲輪側に積み上げないと、防御にならず戦えないので、何らかの対策がされていた筈です。
せっかくの復元ですが、考証は正確ではない様ですね。

三ノ曲輪との間の大規模な空堀
中央に畝も見られるが、外側(右側)の方が遥かに高い
9. 西へ拡張三ノ曲輪(秩父曲輪)
三ノ曲輪は二ノ曲輪のさらに西側、鉢形城の急所に拡張して造られた曲輪群の総称です。 一番北側の秩父曲輪だけはよく発掘・復元されており、当時の姿がよく判ります。
三ノ曲輪は二ノ曲輪のさらに西側、鉢形城の急所に拡張して造られた曲輪群の総称です。 一番北側の秩父曲輪だけはよく発掘・復元されており、当時の姿がよく判ります。
屋敷の四脚門や休憩所を兼ねた館建物が復元され、初心者にもイメージが沸いて来ます。
その奥にある石積みの壁を見て、前述の疑問は一挙に解決しました
。城壁の様に1mほどの石積みが3段重ねで取り巻いていて、壇上に登ってみると、反対側は土の斜面が深く落ちており、これは西端の外郭土塁です。
高く盛った土塁の強度確保と、兵士の迅速な登り降りを可能にする為の石積み(雁木)の様で、部分的に6段の階段状になっています。
この形式の高土塁を積み上げる事で西との高低差を克服し、なおも兵士の交代や矢弾の補充を迅速にして、防御力を向上させているのです。
高く盛った土塁の強度確保と、兵士の迅速な登り降りを可能にする為の石積み(雁木)の様で、部分的に6段の階段状になっています。
この形式の高土塁を積み上げる事で西との高低差を克服し、なおも兵士の交代や矢弾の補充を迅速にして、防御力を向上させているのです。

石を階段状に積み上げ補強した高土塁
戦闘のノウハウが豊富になければ、思いつかない発想でしょう。
戦闘のノウハウが豊富になければ、思いつかない発想でしょう。
10. 大手口周辺
秩父曲輪は完成期には大手の機能を併せ持っていました。
前述の高土塁の南端と、道を隔てた部分に櫓の土壇があり、その間に大手門があった様です。
大手門の外の北側には、空堀に囲まれた大きな角馬出しがあります。
大挙して土塁に殺到した敵兵は、土塁上から鉄砲の集中砲火を浴び、陣形が崩れた所を、馬出しからの掃討の兵馬に横から蹂躙される… そんな感じでしょうか。
秩父曲輪は完成期には大手の機能を併せ持っていました。
前述の高土塁の南端と、道を隔てた部分に櫓の土壇があり、その間に大手門があった様です。
大手門の外の北側には、空堀に囲まれた大きな角馬出しがあります。
大挙して土塁に殺到した敵兵は、土塁上から鉄砲の集中砲火を浴び、陣形が崩れた所を、馬出しからの掃討の兵馬に横から蹂躙される… そんな感じでしょうか。

大手口を外側から見る
中央に櫓台があり、その向こうの柵があるのが高土塁で、この間に大手門がありました。
高土塁の高さがよく判ります
高土塁の高さがよく判ります
秩父曲輪の南隣には、逸見曲輪、大光寺曲輪などの拡張曲輪が深沢川まで続き、弱点を補強しています。
こちらはほぼ平地で川の水を利用できる為、広い水堀というか泥田のような堀を巡らして、人馬が容易には動けぬ様な工夫がされてた様ですが、この一帯は夏草が生い茂り、装備も不十分な為、進入は次回に持ち越しです。
こちらはほぼ平地で川の水を利用できる為、広い水堀というか泥田のような堀を巡らして、人馬が容易には動けぬ様な工夫がされてた様ですが、この一帯は夏草が生い茂り、装備も不十分な為、進入は次回に持ち越しです。
11.下城
“土の城”というのはどこか小規模・籠る・耐える…といったイメージを持っていましたが、“戦う”しかも“大軍を相手に戦い、追い返す”土の城を初めて認識できた気がします。
調べてみれば、“北条流築城術”という確立された技術であり、石の城とも遜色のない強さだという事も判ってきました。今後の関東での城巡りが楽しくなります。
“土の城”というのはどこか小規模・籠る・耐える…といったイメージを持っていましたが、“戦う”しかも“大軍を相手に戦い、追い返す”土の城を初めて認識できた気がします。
調べてみれば、“北条流築城術”という確立された技術であり、石の城とも遜色のない強さだという事も判ってきました。今後の関東での城巡りが楽しくなります。

今回見れなかった南西に備えた曲輪群。 向こうに樹木が並ぶ場所が深沢川。
北条征伐でこの方面を担当した本多忠勝は大きな被害を出し、最後の手段で奥に見える山上から大砲を撃ち掛けた。
北条征伐でこの方面を担当した本多忠勝は大きな被害を出し、最後の手段で奥に見える山上から大砲を撃ち掛けた。