日本100名城  №18  鉢形城             登城日 2012.8.25
 
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所在地      埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2
城郭構造    連郭式平山城
築城年       1476年(文明8年) 室町時代
築城主       長尾 春景
主な改修者   田丸直昌、森忠政
主な城主     長尾景春、上杉顕定、北条氏邦
廃城年       1590年(天正18年)
遺構         土塁、堀
文化財指定   国の史跡
 
 
  鉢形城を見て来ました。
埼玉県寄居町、秩父山系に発した荒川が、秩父盆地を抜け長瀞を経て関東平野に注ぐ箇所に鉢形城はあります。
 荒川右岸の峻険な段丘と、支流の深沢川が削った深い谷に挟まれた天然の要害を上手く縄張りし、戦国期における関東屈指の名城との評価もあります。
 
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 初の築城は1476年、山内上杉氏の臣:長尾景春で、概ね山内上杉氏の居城として機能して行きます。
 後北条氏の武蔵への侵攻が始まると、山内・扇谷の両上杉氏は連合して当たり、関東一円で戦闘が繰り広げらましたが、河越城の攻防戦において帰趨は北条氏に下り、扇谷上杉家は滅亡、山内上杉氏は越後に逃亡します。

 北条氏康は四男の氏邦を鉢形城に入れ、ここを拠点に北関東の経営を図ります。
その後も鉢形は戦略上の要地である事から、有力な大名との攻防の場となり、1569年には武田信玄、1574年には上杉謙信に攻められますが、いずれもこれを跳ね返します。
 氏邦は攻城戦術の変化(弓槍から鉄砲へ)を感じ取り、城域拡大と構造の変革に取り組んだものと思われ、鉄砲の射程を意識した外曲輪群の造営と北条氏特有の角馬出しの遺構がそれを証明しています。
 
 豊臣秀吉の北条征伐が始まると、北条氏は主力を小田原城に集めての篭城作戦を決めます。
 野外戦を主張する氏邦は単独鉢形城に帰り、守兵3,000名余りで前田利家、上杉景勝ら秀吉の北国軍を迎えます。
35,000の大軍に囲まれての防戦一ケ月、ついに氏邦は降伏を決意して開城しました。

 氏邦は利家に望まれ、前田家家臣として召抱えられ、金沢て余生を過ごしたといいます。
その後の鉢形城には、成瀬正一などが代官として赴きましたが、この地が幕府直轄領、旗本領、忍藩の一部となり、大規模な城館の需要も無かった事から廃城となります。
 
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秩父曲輪に復元された屋敷門
 
 
鉢形城を歩く
1. アプローチ
  最寄駅は東武東上線の寄居駅ですが、残念ながら現在の寄居市街は、秩父往還の宿場が発展したもので、鉢形城と目と鼻の先にありながら城下ではありません。
 荒川左岸の寄居からは、鉢形城は急流の向こうの断崖絶壁上にあり、とても城下の機能は果たせなく、城下は城の南側にあったそうです。

…という事で今回はクルマでのアプローチとしました。
関越道の花園ICを秩父方面に降り、寄居の手前の玉淀大橋で左折し、ナビを頼りに大手近くの外曲輪跡にある鉢形城歴史館の駐車場を目指します。 
10分後に三つ盛鱗の北条の家紋に飾られた、まだ新しい施設に到着。残暑の厳しい炎天下にも拘わらず、訪問者が多いです。
 
 
2. 外郭土塁
  歴史館で地図とザッと予備知識を入れ、さっそく散策に出ます。
まずは南の外郭線となる、城下に面した外曲輪から。
外曲輪は内堀となる深沢川の外側に設けられた曲輪で、本曲輪や御殿曲輪との距離的な点から、鉄砲射程を意識した後期の造作と思われます。

 南の城下と外曲輪はほぼフラットで、その奥は山に向かってなだらかに登り傾斜となるので、城下との境で堀を穿ち、その土砂を内側に盛り上げて土塁としています。
堀幅10m、土塁の高さは3m程ですが、壇上の幅は5~6mもあり、例えば鉄砲の“長篠撃ち”も出来そうw

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南の外郭土塁と水堀跡 土塁の壇上は異様に幅広い
 
 土砂の量から想定して、堀の深さも充分にある水堀だった様で、大軍での襲来を経験した者のなせる技なのかもしれません。
土塁自体に近年に手を加えられた形跡が見られず、殆ど当時のままの姿なんだと思います。
 
 
 
3. 天然の内堀 深沢川
  外曲輪を突破した敵が攻め込むだろうコースに沿って、内堀の深沢川を渡って主郭部に向かいます。 
 歴史館の裏手に深沢川へ下りる細道がありますが、川面までの高低差約10m、谷底に橋が架かっており、それを渡って対岸の主郭部へ行きます。

 荒川が浸食によって川岸に断崖を造っている様に、それに注ぐ深沢川も、水量こそ多くはないものの、深いV字谷を形成しており、岩場の多い谷幅は上端で30~40m。
しかも、対岸の主郭部の方が数メートル高くなってて、理想的な天然の内堀となっています。
初期の弓矢の時代の鉢形城は、ここまでだったんだろうな。
 
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天然の内堀:深沢川 二ノ曲輪側より
 
 
4. 御殿曲輪
  対岸を登りきると土塁で囲まれた郭を形成しています。
二ノ曲輪の虎口なのか、大きな枡形を形成しており、外部との主要な連絡路(大手?)だったのでしょうね。
谷底の橋も昔は高い吊橋だったかも知れません。

 土塁の斜面に桜の大木があり、エドヒガンザクラという種類で、春には早い時期に花を咲かせ、写真家で賑わうそうです。
樹齢150年余り…大木の伐採された株から萌芽した12本の幹を持つ二代目で、初代は鉢形城の春を飾っていたのかも知れません。
 
 更に登ると主郭の御殿曲輪になります。
なんと、こんな所をアスファルトの公道が走っていて、行き交うクルマに興醒めです。
道路を挟んで1mほどの段差があり、上段を御殿曲輪、下段を御殿下曲輪と呼んでいます。
下曲輪は現在は寄居町の施設になっており、案内図では深沢川沿いに強固な土塁が築かれている様だが、残念ながら観られません。
上段の御殿曲輪は草が生い茂っていて、詳しくは見れず。二ノ曲輪へと繋がる西側に広く拓けて、西端は今は荒川河畔に降りていく道路となっていますが、たぶん大きな堀切です。

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二ノ曲輪馬出しにある桜の古木 エドヒガンザクラ
 
 
5. 城の本丸 本曲輪
 鉢形城の本丸とも言える本曲輪は、御殿曲輪の北側、つまり荒川の断崖に面した標高の一番高い最上段にあります。
 御殿曲輪との段差は6~7mくらいか、東西に長く、尾根を削平して造られ、 連続する三つの郭から成っています。郭の中間の2ヶ所に御殿曲輪からの登り口がありました。
 西の郭が一番高くて、ここは二ノ曲輪との堀切の真上にあたり、段差も相当あって、御殿曲輪を狙う敵兵を上から攻撃できる要の場所に見えます。西に向けて土塁があり、西北端には櫓台の土壇もあって、監視と迎撃双方に戦闘色の強い構造になっています。

 最高地点から見下ろす荒川の流れは遥かに下で、高低差は30mほどもあり、その間は断崖絶壁です。 
大正7年にこの地を訪れた田山花袋の歌碑が立っています。
 やや下がった中段は特に広く、城主の居館はが置かれていた様で、『鉢形城本丸跡』の標柱が建っています。
北の土塁上に立つと、見晴らしが良く、対岸の寄居市街から、その向こうの上武山系の山並みが見渡せます。この山々にも幾つかの支城が設けられていた様ですね。
 
 東の最下段は200坪ほどの狭い郭です。
この郭間の登り口が特に広く、石垣や石段、門構造も認められるので、ここが本曲輪の大手で、最下段は遠侍のスペースだったのかも知れません。
 
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本曲輪から見下ろす荒川と寄居の町並み 奥には上武山地が迫る